大和国の山間に興った柳生氏

『柳生氏 大和国(現:奈良県奈良市柳生町)』

 

 柳が生える、『柳生』という日本でも珍しく、美しさも感じさせる姓を持った国人領主は、江戸に徳川将軍家が興って以来、剣劇などで有名な柳生石舟斎(宗厳/むねよし)柳生十兵衛(三厳/みつよし)柳生連也斎(厳包/としかね)などの天才剣豪を輩出し、柳生藩1万石の大名および藩祖・宗矩(通称:但馬守)より代々「将軍家剣術指南役(剣豪の家柄)」として栄えた一族であり、元来は大和国の山間に拠った小規模国人領主でありました。
 通説ではその領土わずか3千石という織田信長や武田信玄のような当代切っての有力勢力から見れば、吹けば飛ぶような大和の小国人・柳生氏ですが、(事実、戦国末期に一度没落していますが)、先述の有名な『剣術(柳生新陰流)』という表看板で特に江戸期以降に天下に武名を轟かせるようになったのは有名な話ですが、戦国期では、当時の政治の中心地・京都からは近く(約60km)、また忍者(諜報国人領主集団)で大変有名な伊賀国(現:三重県西部)とは柳生街道を通じて山一つを隔てたのみで非常に近く(直線距離にして僅か約25km)、代々伊賀の国人領主とも密接な関係を築いていた地理的環境によって柳生氏は『優れた情報収集能力/諜報力』を身に付け、乱世を渡ってゆきました。
 『剣』と『諜報』という2つの技能で柳生氏は没落と復活を繰り返し、剣豪として天下に知られ唯一無二の剣豪大名として江戸幕藩体制を生き残ってゆくことになるのですが、剣と諜報というのは時代劇の物語を構成してゆくうえで最適な素材であることは間違いなく、実際、柳生一族が登場する(主に但馬守宗矩)がメインキャストの1人で登場する創作物である「柳生一族の陰謀」・「天下騒乱〜徳川三代の陰謀」・「柳生武芸帳」などで、江戸幕府惣目付(大監察)として諸大名を管轄する宗矩は隠密裏に直属の忍者集団である「裏柳生」を抱え、それを使い幕府に仇を成す宿敵を冷酷に葬り去る(暗殺する)という設定がされていますが、このこと(柳生=忍者の大頭目)も決して後世の荒唐無稽な創作ではなく、京都・伊賀と近距離という地理的環境によって培われた諜報力を駆使して必死に生き残った小国人領主・柳生氏の史実が原型となっているのであります。

 

 剣豪・柳生氏として天下にその武名を轟かせた功績者は戦国期の柳生氏当主であり「柳生新陰流」を創始した『石舟斎(諱:宗厳)』『宗矩(石舟斎の五男)』父子でありますが、国人領主・柳生氏自体の歴史は古く、本姓は菅原氏を称し、天神様で有名な菅原道真を先祖を称し、現在の地理から言えば奈良市から北東に約16km離れた笠置山塊に在する大和国添上郡柳生庄(楊生郷)を領してきた領主でした。
 江戸中期の著名な学者・新井白石が幕府および親藩など諸藩の成り立ち(歴史)を編纂した「藩翰譜」が国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能となっていますが、その「藩翰譜. 巻3」(出版者:吉川半七)の柳生氏に拠ると、石舟斎(戦国期)から8代前に当たる小柳生庄の地頭職であった「播磨守永珍(ながよし、鎌倉末期〜南北朝期)」とその実弟・「中坊源専(笠置山宗徒)」という人物が、鎌倉幕府打倒を目指した後醍醐天皇(のちの南朝)に与して鎌倉幕府軍と戦い、敗北(1331年 笠置山の戦い)。結果、幕府によって後醍醐帝は隠岐島に配流され、一時期永珍は先祖代々所領を没収されてしまいます。後年の石舟斎(宗厳)が当主時代にも、時の天下人・豊臣秀吉によって(理由は後述)全所領が没収されて柳生氏は没落の憂目に遭ってしまっています。鎌倉期(永珍)と戦国期(石舟斎)に国人領主・柳生氏は一度ずつ死んでいるのですが、2度とも後年、同地の領主として復活している点を見ると、柳生氏という氏族は1333年に東国の有力御家人であった足利高氏(のちの尊氏、室町幕府初代将軍)・新田義貞連合軍によって鎌倉幕府が滅ぼされると、復権した後醍醐帝による親政が開始、後醍醐帝は自分に加勢して先祖伝来の所領を失い没落した永珍を哀れに思われ、兄・永珍と同じく加勢をした源専を通じて柳生庄は永珍に返還され、柳生庄領主として復帰して以降、永珍の子孫が国人領主として代々続いてゆきます。

 

 応仁の乱後、室町幕府の権威が衰え世が戦国期を迎えると、有力守護の1つであった河内畠山氏の重臣・木沢長政(河内守護代)が下克上により台頭。1536年、大和国と河内国(現:大阪府東部)の要衝であった信貴山城を築城、ここを本拠に長政は大和に勢力を伸ばします。
 当時の柳生氏当主・「家厳(石舟斎の父)」は勢力が強い長政に属し、大和国内の有力勢力である筒井氏などと戦っています。主君筋であった長政が畿内の切迫した政変などにより徐々に勢力を失い、幕府管領・細川晴元、その重臣・三好長慶と対立した後、最期は長慶と遊佐長教との戦いで敗死(1542年 太平寺の戦い)します。長政没後の家厳は、過酷な戦国動乱期、特に畿内という動乱の坩堝(るつぼ)の大和国の山間に拠る小規模国人領主らしく、柳生という家名を守るために敵対勢力であった筒井氏に従属。のちに三好長慶の重臣であった松永久秀(弾正)が大和に勢力を伸張してくると、家厳は筒井から三好(松永)へ寝返っています。この家厳の転身ぶりは、多くの山々が国土を占めるという大和国と地理的環境が酷似している信濃国(現:長野県)に拠った有名な国人領主・真田昌幸の1582年(武田氏滅亡・本能寺の変)以降の凄まじいサバイバル戦略を彷彿させるものがありますが、戦国期に数多に存在した有名無名の国人領主たちは、己の家名と領土を命を賭して護るために(正に一所懸命)、従う勢力を次々と鞍替えしてゆきました。我々現代人から観れば、国人領主の変身ぶりは無節操な連中と思われがちですが、国人領主たちも生き残りを賭けて必死であり、またそれが戦国期に生きた人々の鉄則でありました。柳生という大和の小国人領主である家厳も、信濃の真田昌幸も、その戦国期を生きるための鉄則に従って行動したのであります。
 因みに柳生氏と真田氏は現在を含める後世の創作などの影響で、柳生氏は「裏柳生」、真田氏は「十勇士」といったように「強力な忍者(草の者)集団を抱える武将」というイメージを持たれるようになっています。これも決して偶然ではなく、山間の小勢力が戦乱を生き残るために必死に情報収集を行い、仕える大勢力先を状況に応じて替えていった史実が両氏の間に存在していたことが上記のイメージの下地になっているのであります。
 実際、柳生氏は一次資料でも忍者の家系と同じように見られており、奈良興福寺の塔頭(たっちゅう)である多聞院の長であった多聞院英俊が主となって、戦国期の動向や畿内の要人などの言動を記録した貴重な資料・『多聞院日記』にも柳生氏について記されており、『家厳は伊賀者(忍び)と共に戦った』と記述されおり、英俊からは家厳を当主とする柳生氏は忍者の一族と同等と見られていたことがわかります。戦国期では正規の武士団からは、どちらかと言えば忍者は軽蔑されていた存在であったのですが、家厳を含める柳生氏では「忍びの家系」と蔑まれようが、生き残ってゆくためには諜報活動も厭う余裕も無かったでしょう。

 

 1560年代後半になると、いよいよ大和を含める畿内は戦乱が過酷になり、1564年7月、畿内の実力者であった三好長慶が病死。三好氏の主導権を巡って家厳が仕える松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が対立、両勢力は1567年4月、大和の筒井順慶を巻き込んで、久秀の本拠・多聞山城および奈良東大寺近郊の市街地一帯戦闘が開始されました。これが「東大寺大仏殿の戦い(多聞山城の戦いとも)」であり、家厳も久秀方として参戦したのですが、本当は無実ながらも久秀は、合戦中に源平争乱期の平家方の武将・平重衡(清盛五男)に続く、東大寺大仏殿を焼亡させた武将として後世悪名を残してしまいます。
 1568年、東海から興った新興勢力・織田信長が台頭、足利義昭を旗頭に上洛に成功すると三好三人衆を蹴散らし、瞬く間に畿内を席捲、久秀も信長に臣従。久秀は織田方の武将として大和国統一に向けて松永・柳生の宿敵である筒井氏と闘争を約5年間繰り広げます。1572年、筒井氏は織田氏の重臣であった明智光秀を通じて信長に臣従することになり、久秀と共に織田配下勢力となったので、筒井・松永の両氏は和睦することになりました。東海より信長という巨星が誕生したことにより、長く続いていた大和国の内乱も一時的ながらも収まったのであります。家厳をはじめとする柳生一族もようやく安堵を得たのではないでしょうか。その証拠に、筒井・松永両氏の和睦後、家厳は過酷であった国人領主から引退し、息子・『宗厳』に柳生氏当主の座を譲っています。宗厳、即ちこの人物が「柳生新陰流」を創設した石舟斎であります。

国人領主として悲哀を味わった剣豪・柳生石舟斎

 唐突ながら筆者が、『石舟斎という人物(というよりその子・宗矩や孫・十兵衛といった柳生一族や新陰流)』を初めて知ることになったのは、1993年にテレビ東京系で放映された大型時代劇『徳川武芸帳 柳生三代の剣』を観たことでした。歌舞伎俳優・九代目松本幸四郎(現:二代目白鸚)さんが当代随一の剣豪でありながら平和を尊重する人格者・宗矩を演じられ、十兵衛には俳優の村上弘明さん、そして不器用ながらも宗矩の行く末を案じながら剣一筋で生涯を貫き通した厳格な石舟斎には名優であられた故・平幹二朗さんが演じられていました。幸四郎さん・村上さんの名演技ぶりも勿論素敵なのですが、乱世に翻弄され所領を失い没落してゆきながらも己が習得した剣術と信念を頑迷に貫き通した平さん演じられた石舟斎の迫力ぶりには特に強い印象が残っております。
 他作品のNHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』(第40作/2003年)で、これも名優であられた故・藤田まことさんが主人公である武蔵(演:歌舞伎俳優の市川海老蔵さん)の人格形成に大きな影響を与えた人格者・石舟斎を演じられたのも、平さんの石舟斎とはまた違った魅力に溢れていました。

 

 筆者は上記のメディア群を通じて剣豪としての石舟斎の波乱万丈の人生を少し知ることになったのですが、史実(国人領主として)の石舟斎の晩年期を除く殆どの生涯も波乱に富み、父・家厳から受け継いだ柳生氏を生き残りを賭けて小勢力の悲哀を十分過ぎるほど味わっていることは確かであります。
実は、剣豪として現在でも有名な石舟斎でもあるに関わらず、国人領主としての詳細な活動履歴が掲載されている資料は、『多聞院日記』や柳生氏家譜である『玉栄拾遺』に多少記述がある程度であります。石舟斎が父・家厳から柳生氏の家督を相続した正確な時期は不明ですが、信長勢力が大和まで及び松永久秀、次いで久秀の宿敵・筒井順慶が信長に臣従した直後であると言われているので、凡そ1569年〜1570年前半には石舟斎が柳生氏当主になっていたと思われます。先出の『藩翰譜. 巻3 柳生の項』でも柳生藩初代藩主・宗矩についての功績など多く記述されている反面、石舟斎については、

 

・信長の重臣であった柴田勝家・滝川一益・佐久間信盛率いる大軍が大和国へ侵攻した際には、石舟斎が織田軍の道案内役をした。
・豊臣秀吉が実施した有名な政策・太閤検地に折、柳生氏譜代家臣である松田某という者によって、石舟斎が隠田(おんでん)を持っていることを密告され、累代の全所領を没収された。
・天下分け目・関ヶ原合戦の折、徳川家康の家臣となっていた子・宗矩が家康の命令で、「急ぎ本国(大和)へ戻り、父・石舟斎と共に同地の国人衆を扇動して、西軍(石田三成)の動きを牽制せよ」

 

といったように、僅かに触れられている程度であり、石舟斎関連記述については通算すると1ページにも満ちていない状態であります。しかし、先述のように石舟斎がわずか3千石の小国人領主として、織田・松永・筒井などの三つ巴の闘争に翻弄され続けたのは事実であり、父と同じく松永久秀に属し続けていた壮年期の石舟斎は、戦国期の流行流儀の新当流(開祖は剣聖・塚原卜伝)を神取新十郎を学びつつ剣術の腕を磨きつつ、1566年(石舟斎:35歳)に多武峰合戦にて拳を負傷、1568年には落馬事故に遭って重態になり、1571年、久秀と筒井順慶が激突した辰市城の合戦では、久秀軍に属していた石舟斎含める柳生一族は、嫡男・厳勝(尾張柳生の祖・兵庫助利厳の父)が腰部に鉄砲傷を受け、以後歩行に支障をきたすようにり、剣を振ることが出来なくなるという不幸を味わっています。石舟斎は、上記のような大事な嫡男が不幸になるといった度重なる争乱に嫌気が指したらしく、1574年に石舟斎は隠居・剃髪してしまいます。時に石舟斎47歳でした。因みに諸説ありますが、この頃より宗厳という諱から『石舟斎』という号を用いるようになったと言われております。

 

 「兵法(剣術)の舵をとりても、世の海を渡りかねたる、『石の舟』かな」
 「兵法は 『浮かまぬ石の舟』なれど 好きの道には 捨てられもせず」

 

上記2つの言は、宗厳改め石舟斎が剣術思想を顕したとされる「兵法百首」に掲載されているものですが、石舟斎という号は上記の2首から由来していることは想像に難くありません。壮年期に新当流、次いで戦国期随一の剣聖・上泉信綱(旧名:秀綱)から新陰流を学び、兵法の奥義(無刀取り)を極め「柳生新陰流」を創始した剣豪でありながらも、小国人領主として乱世に翻弄され続けた石舟斎が味わった悲哀が十分すぎるほど滲み出ているのですが、同時に「自分は兵法は強いが、世渡り下手だ」と率直に公言するばかりでなく、自分の名にも用いるところに筆者は石舟斎の魅力を感じるのであります。

 

 石舟斎の主筋であった松永久秀が、越後国(現:新潟県)の上杉謙信や安芸国(現:広島県西部)の毛利輝元など反信長勢力と結託して、信長に対して反乱を起こし敗死した(1577年 信貴山城の戦い)折にも、隠遁生活していた石舟斎および柳生一族は久秀軍には与しておらず、久秀戦死後に大和国の支配者となっていた筒井氏にも従属せず、同じ国人領主であった十市遠長と連盟を締結(国人一揆)して独立体制を保ちました。
 石舟斎、とうより柳生氏最大の不幸は、信長死後(1582年 本能寺の変)に中央政権を把握した羽柴秀吉が大和国を支配下に置き、秀吉の弟・秀長が大和国主として入国した際に実施した太閤検地によって、石舟斎が隠し持っていた財産(隠田)が摘発され、その罪によって柳生庄3千石が没収。事実上、国人領主である柳生氏が滅亡したことであります。
 『藩翰譜』によると、柳生氏に仕えていた譜代の郎党・松田が石舟斎を裏切り、秀長に柳生の隠田を密告したことが原因で全所領が没収された、と書かれており、石舟斎は口惜しく思い、3人の息子(恐らく、嫡男・厳勝、四男・宗章、そして五男・宗矩)に柳生の本領回復と裏切り者・松田を斬ることを強く命じたそうです。ここでも石舟斎は小国人領主ならではの『口惜しさ』と苦汁を味わされているのであります。因みに、石舟斎の悲願であった柳生3千石の本領と松田の殺害は、後年、徳川氏に仕えた宗矩によって達せられています。

 

 全所領を失った石舟斎は一族を引き連れて、近江国(現:滋賀県)に移住したり、京都へ流れて五摂家筆頭の名門公家・近衛前久の下へ寄宿したりしていたと言われています。石舟斎が再び戦国期の表舞台に登場するのは、1594年5月、豊前国(現:大分県北部および福岡県北東部)の大名であった黒田長政の仲介を経て、京都郊外の紫竹村の小屋に滞在していた時の豊臣政権下の最大大名であった徳川家康(関東250万石)が剣豪として名高い石舟斎を招聘したのであります。
 石舟斎(66歳)は宗矩(24歳)を伴って、家康の下へ赴き、御前で柳生新陰流の太刀筋や究極奥義「無刀取り」を披露。そればかりでなく大名にも関わらず神影流(上泉信綱の新陰流から派生)を奥平久賀(急賀斎)から7年間学んだほど兵法(剣術)に精通していた家康も石舟斎の相手となり、無刀取りを体験しました。これにより家康は柳生父子をいたく気に入り、石舟斎に徳川氏への仕官を勧めました。しかし60を越えて高齢であった石舟斎は仕官を辞退し、代わりに20代前半の青年であった宗矩を家康に推挙しました。これにより、後に徳川将軍家剣術指南役および幕府初代大目付となって権勢をふることになる宗矩が徳川氏に仕えることになりました。因みに宗矩の最初の石高は200石であり、柳生3千石の本領を回復するのは関ヶ原の戦い後の1601年まで待つことになります。

 

 これ以降、晩年期を迎えた石舟斎は歴史の表舞台から再び姿を消すことになります。恐らく宗矩が必死に回復してくれた故郷・柳生庄にて穏やかに余生を過ごしていたと思われます。そして1606年5月25日、石舟斎は80歳で波乱に満ちた生涯を終えました。剣豪として名を馳せながらも、大和の山間の小国人領主として所領を争乱から護るための生涯でした。

 

 柳生氏は、先に紹介させて頂いた筆者が好きな南近江の国人領主・蒲生氏に比べると、遥かに小勢力で産業力が劣り、田舎臭ささえも感じますが、筆者は当時典型的な国人領主を悲哀を味わいつつも、生き残り剣術流儀を創始した柳生石舟斎、殺しの技能であった兵法(剣術)を泰平の『武道(剣禅一如)』として昇華させていったその子・但馬守宗矩を含める柳生氏もまた好感を覚える国人領主であります。機会と筆者の根気があれば、宗矩についての記事も執筆してみたいと強く思っています。

 

 最後に白状させて頂くと、石舟斎の師匠であった上泉信綱(出自:上野国(現:群馬県)の国人領主)に関しても、池波正太郎先生の『剣の天地』(新潮文庫)という一大傑作を読んで以来、信綱についても強い興味を惹かれて調べてみたいと思っているのですが、柳生氏に比べると上泉(大胡)氏関連の遥かに資料が少ないので、しっかり執筆できる自信が未だありません。何れは上泉氏についても執筆してみたいものであります。