遠江の国人領主の代表・井伊氏

「国人衆を出自とする戦国武将」とタイトルを打った前回の記事では、東北をはじめ国人衆の連合地帯というべき甲信といった東日本を中心に国人領主を出自としている戦国武将の一部について紹介させて頂きましたが、今回は『東海編』を紹介させて頂きたいと思います。
 東海の戦国武将では、ご存知、尾張国(現:愛知県西部)守護代の織田氏・三河国(現:愛知県東部)の松平(徳川)氏といった三英傑をはじめ駿河国(現:静岡県東部)守護大名の今川氏が有名ですが、他にも尾張や遠江国(現:静岡県西部)にも織田や今川氏(のちに徳川氏)に従属しつつ戦国の世を生き残っていった国人領主が多く存在しました。

 

1.井伊氏(遠江国)
 江戸幕藩体制期には近江国彦根藩35万石(現:滋賀県彦根市)を本貫とする徳川筆頭譜代大名になる井伊氏も元々は遠江国井伊谷を統治する小規模な国人領主でした。強豪・駿河今川氏の厳しい統制下に置かれ必死に自家の存続を図る国人領主の悲哀が描かれた2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」も記憶に新しいです。
 井伊氏の出自については、「藤原良門流(寛政重修諸家譜)」や「藤原為憲(南家の藤氏)を祖とする(古代氏族系譜集成)」、更に別説では、奈良から荘官として遠江に着任した「三宅好用」という人物がが井伊谷に居館を構えたのが井伊氏のはじまり、など諸説あり明確でありませんが、『藤原共保(ともやす)』という平安期の人物が井伊氏の始祖とされているのが現時点では有力なようです。
 共保がまた伝説的な存在となっており、遠江国井伊谷にある八幡宮の井戸近くに置かれていた「眉目秀麗な捨て子」であったと言われており、八幡宮神主によって育てられて、共保少年は神童と称せられるほどの器量の持ち主に成長し、その噂を聞きつけた遠江国司・藤原共資が共保を見込み自身の一女と娶せて、共保を婿養子として迎えて、藤原共保と名乗らせています。
 1032年、共保が家督を相続すると、井伊谷に本拠を構えて『井伊共保』と名乗ったとされています。先述のように捨て子の共保が井伊氏を興したという話自体、如何にも根拠が不確かな伝説であることを物語っており、井伊氏を含め他の多くの鄙びた国人領主たちの出自も不明確なものでした。井伊氏の場合は、一国人領主であったのに最終的には江戸期最大の譜代大名となってしまったので、建前上、急遽出自の明確化かつ少しでも家系に箔を付けさせる必要があったので、始祖・井伊共保の捨て子伝説を井伊氏が創り上げたかもしれません。

 

 上記のように井伊氏の出自は不明確そのものですが、平安期に遠江国井伊谷に土着した国人領主であったことは事実であります。後年、南北朝期動乱期になると、当時の井伊氏当主・井伊道政(井伊介/遠江介)は後醍醐天皇方である南朝に属し、足利氏の北朝方と対峙するようになり、特に足利一門であった駿河今川氏としばしば干戈を交えています。また戦国期に入ると、駿河今川氏が遠江国に侵略した際、同国の守護大名である斯波氏と対峙。斯波氏の支配下であった井伊氏は駿河今川氏と対立しています。結局、遠江は今川氏の支配下に置かれるようになり、井伊氏も今川氏に従属することになりますが、以前の対立関係の影響があり井伊氏と駿河今川氏との関係は微妙なものであったと思われます。大河ドラマに描かれていた今川氏の井伊氏への締め付けは決してフィクションではなかったのです。
 1560年、有名な桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川軍として従軍していた当時の井伊氏当主・井伊直盛も戦死し、直盛の従弟に当たり、直盛の娘・次郎法師の許婚であった井伊直親が井伊氏当主となりますが、その直親も三河の領主・松平元康(のちの徳川家康)との内通疑惑で今川氏に誅殺されるという「遠州錯乱」という騒動により、井伊氏を継ぐ成人男子が絶え、直盛の娘である次郎法師が『井伊直虎』となり、女城主として井伊氏を継いでゆくことになります。
 三河の徳川(松平)・駿河の今川氏の間に挟まれた直虎は井伊氏を滅ぼすことなく、巧みに生き残り、今川氏が衰退すると徳川氏の傘下に入り生き残ってゆきます。その直虎の後継者となったのが直虎の許婚であった亡き直親の遺児・虎松、即ち後年の『井伊直政』であります。
 幼少期の井伊直政は、亡父・直親が謀反人として成敗された経緯もあるので、亡命生活を余儀なくされる不遇な少年時代を過ごしていますが、三河・遠江に勢力を伸ばしていた徳川家康に小姓として仕えてから直政、ひいては井伊氏の運気が開けます。智勇兼備の名将に成長した直政は内政・外交・合戦面の全てに置いて活躍し、家康からの信頼も厚く、三河譜代の家臣出身者でない直政は酒井忠次・本多忠勝・榊原康政と並んで、徳川家臣団の中心的人物(『徳川四天王』)になってゆきます。
 1582年、戦国最強であった甲斐武田氏が滅ぶと、その多くの遺臣たちを登用した家康は、彼らを直政の家臣団して組み込みました。直政は精強な赤備・武田軍に倣い、自分の管轄軍も赤備えとしました。これが後々まで『井伊の赤備え』『井伊の赤鬼』と畏怖される直政軍団となります。現在でも有名な彦根市ゆるキャラ・ひこにゃんとトレードマークとなっている朱色の兜は井伊の赤備えから由来しています。
 1590年、家康が豊臣秀吉の命令で小田原北条氏の本拠地であった関東地方へ移封されると、直政は徳川家臣団の中で最高である上野国(現:群馬県)箕輪12万石の大名になります。この事を見ても家康の直政へ対する信頼の厚さがわかります。
 1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利し、遂に天下人となった家康は、直政に近江国佐和山(現:滋賀県彦根市)18万石に与え、京都・西国の監視役としました。直政の子・直孝の代に佐和山に近い彦根に本拠を移し、大坂の陣を経て、井伊氏は彦根藩30万石の大大名として江戸期を生きてゆき、幕末には『井伊直弼』が登場。井伊氏は江戸幕末史にも大きな一役を担っています。 戦国初期には散々な目に遭っていた井伊氏ですが、井伊直虎を経て、名将・井伊直政で井伊氏は急成長、江戸期では最大譜代大名として君臨し、現代では元祖ゆるキャラ・ひこにゃんに影響を与え、日本の社会現象に一石を投じたのであります。

三河の国人領主の代表・松平氏

2.松平氏(三河国)
 戦国の世に終止符を打った天下人・徳川(旧:松平)家康の母体となった松平氏は、元来、北三河の山奥の『松平郷(現:愛知県豊田市松平町)』から誕生した小国人領主でした。作家の司馬遼太郎先生は、一大紀行シリーズ『街道をゆく43 濃尾参州記』の中で、松平氏が興った松平郷についての感想を以下のように書いておられます。

 

 『30年近く前、愛知県の地図をながめていた。県の東方の三河の部を虫めがねでながめらがら、山中に、「松平」という極小の活字を見つけて、うれしかった。考古学者が思わぬ土器の破片でもみつけたような気持ちであった。』
 『さらに地図をこまかくみると、そのあたりに水流がないことを知った。少しくだれば細流がある。ほそぼそと山田を耕す農民が、わずかにいたであろう。水田の豊かな地から戦国の豪族が興るという常識からいえば、徳川氏の遠祖は、ずいぶん暮らしにくげな辺地から出たことになる。』
 (以上、「街道をゆく43 高月院」より)

 

 その松の木が生い茂る「山間の辺地・松平郷」を治めていた松平氏の始祖とされているのは、「松平親氏(ちかうじ)」という室町初期の人物であります。この親氏、元々は松平氏出身者でなく、上野国新田郡新田荘得川郷(現:群馬県太田市徳川町)に拠っていた新田源氏一門の得川(世良田)義季の末裔を自称する「時宗の僧(総本山清浄光寺で出家)」であり、旧名も「徳」であったと言われています。先出の『街道をゆく43』内で、この親氏(徳)および時宗の僧などについて紹介されています。

 

 『徳川家の祖は、「徳」とよばれている流浪の法体(ほったい)の人だったという。時宗(じしゅう)の僧だった。当時、こういう漂泊の人を時衆(じしゅう)ともいった。寺をもたず、多くは経典なども読まず、つねに諸国を歩き、豪族の家にとめてもらっては、先祖の供養などをするのである。一ヵ寺をもつ正規の僧からは、はなはだ賤視されていた。』
 『ついでながら、時宗の遊業(ゆぎょう)僧は、その名として漢字一字の下に阿弥をつけていた。「徳」は、正しくは徳阿弥という。父とともに流浪していたというから、漂泊が家業だったらしい。』
 (以上、「同書より」)

 

 先に紹介した遠江の井伊氏の始祖とされる井伊共保は「捨て子」であったといわれ、今の松平氏の祖・親氏の場合は「時宗の僧(遊行僧)」といったように、両氏とも氏素性が明確でない連中ばかりであり、この点を鑑みても国人領主の系譜とはいい加減なものであるということが感じられます。
 遊業僧・徳阿弥(のちの親氏)は流浪の末、三河松平郷に辿り着き、父・在原信盛の代より同地を治める松平信重という国人の屋敷に連歌会に呼ばれ逗留することになります。信重は徳阿弥の人なりに惹かれ、自身の次女である水(すい)姫を娶らせ、徳阿弥を松平氏の婿養子に迎え入れ、徳阿弥には「松平太郎左衛門親氏」という名と松平氏の相続権までも与えました。徳阿弥という人物は放浪者ではありましたが、田舎武士であった松平信重を魅了する器量の持ち主であったようです。証左として、松平郷の国人領主となった親氏は、後年、近隣領主たち(中山七名)を滅ぼし、戦国大名・松平氏の礎を築いた人物とされています。 
 因みに親氏がまだ徳阿弥(遊行僧)であった時分に、松平氏に婿入りする以前に三河幡豆(はず)郡吉良を治める地侍・酒井与右衛門の屋敷にも逗留しており、その酒井の娘と通じて男子を産ませています。この男子が後年、徳川家臣団筆頭格になる酒井氏の始祖・酒井広親となります。周知のように酒井氏は、江戸幕府が開幕した以降、井伊氏と並んで大老を輩出する名門一族になるのですが、この名門・酒井氏が誕生した経緯を、司馬先生は『もとはといえば、徳阿弥のいい加減さ(筆者注:複数の女に手をつけるふしだらさ)からはじまったものである』(街道をゆく43)と断じておられます。
 親氏の孫と言われている(息子説もあり)「信光」の代(戦国初期)になると北三河の松平郷から南下へ進出を本格化させ、岩津城(現:愛知県岡崎市岩津町)を拠点として、周囲の豪族である関口・長沢・山下・西郷などの諸氏を攻略・外政で屈服させ、安祥城や長沢城、末裔である徳川家康の生誕地となる岡崎城などを支配下に治めることに成功。戦国大名としての松平氏の勢力基盤を構築してゆきました。また信光は子福者であり、それぞれの子供は安祥松平・岡崎松平などの多くの分家を興すようになり、その中で家康が誕生する家が安祥松平になります。
 家康の祖父にあたる「清康」(安祥松平3代目)は智勇兼備の名将であり、若干13歳で一族内紛を抑えれず隠居した父・信忠から家督を相続。その翌年に岡崎松平氏の山中城を攻略したのを皮切りに、岡崎城も奪取し、同地を本拠地としました。
 清康は岡崎城の城下町を造り、武勇に優れた5人の家臣で形成された岡崎5人衆や代官職を制定するなど戦国大名としての管理体制を整えると同時に、一族や周辺豪族と戦い北三河や東三河を支配下に治めてゆきました。
 清康は、戦国大名・松平氏の最大勢力を築き上げましたが、25歳の折りに隣国・尾張の守山城へ出兵した際に、自身の家臣である阿部正豊に斬殺されるという「森山崩れ」と呼ばれる事件で生涯を終えることになります。
 名将・清康を突如失ったは松平氏は、清康の嫡男で家督を継いだ年少(10歳)広忠は、尾張の織田氏などからの外圧に晒されるようになったばかりか、家臣や一族の統制を執ることが困難となり、広忠が一時期、伊勢国(現:三重県)に亡命を余儀なくされるほど、衰退の一途を辿りました。
 窮した広忠は、東国の駿河今川氏の傘下に入り、松平氏の存続を図りました。その証として松平氏から今川氏への人質として差し出されたのが、広忠の嫡男・竹千代、後の徳川家康であります。今川氏の巨大な権威の下、松平氏の勢力回復を念願としていた広忠ですが、その広忠も父・清康と同様に24歳の若さで急逝してしまいます。死因としては、家臣の岩松八弥に斬殺されたとする説と病死説もあります。広忠の死により、松平氏および三河は完全に今川氏の属国になり、松平氏(三河)家臣団は忍従を強いられることになります。のちに天下統一を果たす松平氏も小規模国人領主の悲哀を十分すぎるほど味わっている家系であります。
 松平氏が今川氏の従属を抜け、戦国大名として自立するのは松平元康(家康)の代まで待つことになります。そして、その家康も父・広忠同様、東国最強の武田信玄の圧迫、織田氏・豊臣氏への従属を経て、勢力を徐々に蓄え、1600年の関ヶ原での勝利で天下の覇権を確立。15年後に豊臣氏を大坂の陣で滅ぼし、徳川250年の天下を築き上げました。
 三河の山間から出た小規模国人氏族が天下統一を果たすことになったとは、始祖とされる遊行僧・徳阿弥(親氏)が松平氏の婿養子になった時には思いもよらなかったでしょう。

尾張の国人領主の代表・蜂須賀(ハチスカ)氏

天下人・羽柴(豊臣)秀吉の股肱の臣で、江戸幕藩体制では外様大名・阿波徳島藩主(現:徳島県)、次いで明治期になると侯爵に列せられるとなる蜂須賀氏も、元を辿れば、美濃国(現:岐阜県)に隣接する尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)を領する国人領主の1人でした。
 尾張蜂須賀氏の誕生経緯(出自)は、先述の井伊・松平よりも不正確なものであり、戦国史の泰斗である静岡大学名誉教授・小和田哲男先生の説によると、南北朝期に南朝の主力として活躍した『楠木氏』の一族と言われていますが、他には藤原氏、清和源氏から出た斯波氏の傍流説もあり、諸説が入り混じっています。兎に角にも、秀吉の譜代家臣として有名な『蜂須賀小六(諱:正勝)』の曾祖父に当たる「正永」という人物が蜂須賀氏の始祖とされています。
 今更ながらですが、司馬先生の『街道をゆく43』に拠ると、「蜂須賀=ハチスカ」という日本でも珍しい姓および国人・蜂須賀について以下の通りに記述されています。

 

 『古い日本語で、砂地のことをスカという。小六の本貫の地は海東郡蜂須賀村で、木曾川下流の一大デルタ地帯の一角をなしている。砂丘(スカ)が多いとはいえ、いまの海部郡美和町蜂須賀の地には弥生後期の遺跡があることを見ても、古くからの水田地帯だったのにちがいない。』

 

 『小六の祖父正昭がここで200貫文を領していたという。小さいながらも、室町体制の正規の武士であったことは、まぎれもない。』
(以上、『街道をゆく43濃尾参州記 蜂須賀小六 より』

 

 蜂須賀氏は、正永の代には尾張守護大名である斯波氏の被官(家来)となっていましたが、戦国期(1500年代初期)になり斯波氏の権威が衰えると、正利(小六の父)の代になると、当時、美濃で勢力を持ち始めた斎藤氏の被官になっています。蜂須賀氏も、周辺勢力の強弱を見定め、強い勢力(大名家)の傘下に入るという戦国期の国人領主の典型的行動を採り、必死に戦国の世を生き残ってゆきます。
 小六の代になると、いよいよ蜂須賀氏は戦国の表舞台に登場するようになってゆきます。蜂須賀氏当主になった当時(1553年頃)の小六も父祖と同様、美濃斎藤氏、次いで信長の一族である岩倉織田氏(伊勢守)、犬山織田氏などの周辺勢力に転々として仕えていますが、1564年頃になると、当時美濃攻略に奮闘していた信長(織田弾正忠氏)に仕えるようになります。
 小六が後世(現代)までにも名を残すようになった有名な出来事が「墨俣築城(物語上では墨俣一夜城)」であります。1566年、小六は国人仲間(川並衆)である前野長康・稲田大炊助・青山新七、日比野六大夫など共に、当時未だ信長の下級将校であった木下藤吉郎(秀吉)に協力して、美濃攻略の要地・墨俣に城砦を短期間(3日間と言われています)で築城したのであります。
 この墨俣築城から小六と藤吉郎、のちの秀吉との本格的な連携が始まったのであります。小六は信長の命令で、墨俣城守将となっていた藤吉郎の与力となり、美濃斎藤氏家中の内部工作(調略)に従事しています。尾張美濃国境の近くに本貫を持ち、以前美濃斎藤氏に仕えていた小六にとっては、対斎藤氏への諜報工作は適材適所というべきものでした。事実、信長からその功績を認められ、500貫文の所領を褒賞として与えられています。
 斎藤氏への諜報活動の責任者であり、小六の上司となった藤吉郎は、美濃攻略の大活躍が契機となり織田家中で頭角を現し、後の更なる躍進である天下人・豊臣秀吉に繋がってゆくことになるのですが、藤吉郎の最初の飛躍である功績の陰には、小六の貢献が大きかったに違いありません。
 藤吉郎が織田家中で立身出世を遂げ、近江長浜12万石の城主となり、羽柴秀吉と改名した頃より、小六は秀吉の直臣的立場となります。1570年代後半になると、信長より秀吉が中国経略(毛利攻め)の総大将に任命された時も、小六は息子・『家政』と共に、秀吉に従って播磨(現:兵庫県南部)平定戦などで勲功を挙げ、秀吉より播磨龍野城5万3千石を与えられ、秀吉の宿老的存在になってゆきます。
 信長が横死した本能寺の変、山崎(1582年)・賤ヶ岳(1583年)など合戦での勝利を経て、秀吉は天下人の座へ駆けあがってゆくことになり、小六・家政父子の蜂須賀氏は、秀吉の筆頭格の宿老として羽柴家中で存在感が増してゆくと同時に、国内を代表する大名へと成長してゆきます。
 秀吉の四国攻め(1585年)でも、小六・家政父子は秀吉軍として出陣し、一宮城・木津城攻めで武功を挙げ、四国平定後の翌1586年、家政に阿波一国18万石が与えられ、蜂須賀氏は一国一城の大大名となりました。逸話では、秀吉は小六に対して阿波18万石を与えるつもりであったと言われていますが、小六は自身の高齢で一国を統治するのが困難であり、秀吉の側近として仕えることを強く望んだために、止む無く秀吉は子の家政に阿波を与えたと伝えられています。因みに家政が阿波国主となった蜂須賀氏の本拠として、徳島城を築城することになるのですが、同城が完成した折り、家政が城下の領民に対して、「築城祝いに好きに踊れ」という命令を出したことが、現在でも有名な「阿波踊り」の発祥とされています。
 蜂須賀氏が阿波国主となったのを見届けた小六は1586年7月、61歳で大坂・樓岸屋敷で生涯を終えました。蜂須賀氏は家政が当主となり、豊臣系大名として存続し、天下人・秀吉死去(1598年8月)後は、家政は豊臣5大老筆頭で最大大名(255万石)である徳川家康に接近し、迎えた1600年天下分け目・関ヶ原の戦いでは、息子・ 蜂須賀氏が阿波国主となったのを見届けた小六は1586年7月、61歳で大坂・樓岸屋敷で生涯を終えました。蜂須賀氏は家政が当主となり、豊臣系大名として存続し、天下人・秀吉死去(1598年8月)後は、家政は豊臣5大老筆頭で最大大名(255万石)である徳川家康に接近し、迎えた1600年天下分け目・関ヶ原の戦いでは、息子・『至鎮(よししげ・初代徳島藩主)』に家康(東軍)に参戦させて、引き続き阿波一国を安堵され(大坂の陣後、25万石に加増)、蜂須賀氏は生粋の豊臣系大名でありながら、徳島藩として江戸250年間を生きてゆくことになります。

 

 実は天下人・秀吉に忠実に仕え、1つの国人領主であった蜂須賀氏を大大名と押し上げた小六正勝には、どうしても付きまとうイメージがあります。それは小六が『野盗の親分』であったという創作から完成してしまったイメージであります。
 秀吉のサクセスストーリーを描いた秀吉関連講談・テレビドラマや「太閤記」・「絵本太閤記」(両書とも江戸期に完成)で、未だ浮浪時代の秀吉が、矢作橋に居るところを野盗の子分たちを引き連れていた小六と出会うという描写があまりにも世間一般に定着してしまったために、『小六=盗賊・野盗の頭目』となってしまったのであります。
 先程からしばしば今記事の文献の一部として利用させてもらっている司馬先生の『街道をゆく43』で、「小六=野盗説」に纏わる面白い逸話が1つ紹介されています。
それは、明治期になり侯爵家となった蜂須賀氏、当時の当主は 先程からしばしば今記事の文献の一部として利用させてもらっている司馬先生の『街道をゆく43』で、「小六=野盗説」に纏わる面白い逸話が1つ紹介されています。それは、明治期になり侯爵家となった蜂須賀氏の当主・『茂韶(もちあき、徳島藩最後の藩主、後に文部大臣など政府高官を歴任)』が、ある日、単独で宮中へ参内して応接間に待たされた折、卓上の箱にあった紙巻タバコを出来心で1本頂戴して、自分の服のポケットに入れました。その後、明治帝が入ってこられて、タバコの減りに気付かれた明治帝が、実に嬉しそうに茂韶侯爵を見つめられ、冗談で『蜂須賀、先祖は争えんのう』と仰せになられたそうです。
 上記の一言は明治帝にとっては一場の諧謔であったのですが、言われてしまった茂韶にとってはこたえたものであったらしく、この後、蜂須賀侯爵家は、明治末期から大正期に日本史の権威とされていた文学博士・渡辺世祐(よすけ)氏に、「蜂須賀氏の祖・小六正勝は盗賊でない」ということを証明してもらうことを依頼しました。渡辺博士は、その蜂須賀家からの要望に応え、1929年に雄山閣から「蜂須賀小六正勝」を刊行するまでに至っています。
 実の所、明治帝から『先祖はあらそえんのう』と冗談を言われてしまった茂韶は小六とは血縁関係はなく、寧ろジョークを仰せになられた明治帝こそが蜂須賀小六の血を受け継いでいるのであります。何とも言えぬ皮肉になってしまっています。
 明治帝がお持ちになられてしまった『蜂須賀小六=盗賊』説というのは、先述のように講談上での創作であり、事実は尾張の国人領主の1人であったのであります。図らずも秀吉という日本史上稀な英雄に仕えて大出世してしまい、秀吉の物語の創作上の理由で、盗賊の頭目とされてしまった蜂須賀小六を温かい目で見てあげたいものであります。