戦国期の人々が生きた「流通時代」

古今東西問わず、世間に数多の人や様々な物資が行き交うこと、つまり「流通」によって我々人間は日々の生活している』ということを考えると、『人は先祖代々、流通によって生かされ、世の中が発展してきた。昔から現在、そして未来も、人は「流通時代」を生きている』と言えると思います。
 現在でこそ、(道路などインフラ整備や流通手段が未熟な途上国除きますが)、日本を含める世界各国では「陸空海の路」の交通網が整備され、流通システムも、計算が苦手な凡夫である筆者には到底思いも付かないほどの緻密な計算によって盤石に構築されており、大地震などの大災害や内紛(戦争)といった緊急事態が発生しない限り、各国内外に人や物資が行き渡り世の中が日々躍動しているのですが、日本の戦国期の流通手段(インフラなど)はどのようなものであったのか?という疑問が以前から筆者にありました。

 

 戦国期も遥か500年くらい以前の過去なので、現在のように自動車や飛行機、道路を開削・舗装する重機といったハイテクノロジー技術が無い時代で、現代よりも格段に流通手段が劣っていたのは当然の事なのですが、その限られたインフラ条件下で、戦国期を生きた人々(戦国大名)も「自国の流通の良し悪し」によって生きていた「過去の流通時代の人々」であり、特に勢力同士が命の遣り取りをする殺伐とした戦国期では、食料(兵糧)をはじめ、人員(兵力や労力)・武具の調達などの流通手段が迅速かつ盤石さが戦国大名・領国の死活問題となっていたと言っても過言ではないでしょう。
 戦国大名たちはどのように、物資や人を流通させていたのか?それを後々記述させて頂くとして、先ずは戦国期の流通手段であった「陸路」と「海路」事情はどのようであったのか?順繰りに紹介させて頂きます。

日本の陸路の歩みと戦国期

日本では縄文時代から、すでに人工の陸路、即ち「道路」があったとされており、7世紀後半(飛鳥後期)の律令制が制定され、孝徳天皇の「改新の詔(646年)」により、地方諸国に行政官である国司・郡司、それらが赴任する官庁が設置され、中央政権の勢力が地方へ拡大してゆき、地方区画として「五畿七道」が国内に定められると同時に、日本初の本格的道路網整備が始められるようになり、中央(奈良)と地方諸国(官庁)を結んだ主要道路『七道駅路(古代官道)』が歴史の表舞台に誕生しました。七道とは、「東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道(四国北部)・西海道(九州)」を指しており、これらの呼称は現在の行政区画としても公私にわたり広く利用されていますが、古代に制定された七道名から由来しています。
 七道は、先述のように孝徳天皇期に原型が形成されていましたが、天智・天武天皇期(668年〜686年)に本格的な整備が行われ、初期の道幅は12mと幅広く開かれていました(後に、道の管理的理由により道幅9mおよび6mに縮小)。また七道は、可能の限り直線的に平坦になるように開かれていたために、小さな谷を埋め立て、峠付近は切り通しするようにされていましたので、集落や都からは遠く離れた場所を通っており、流通面では不便なところもあったと推察できます。
 この集落や都から離れた幹線道路が、集落や町に向けて本格的に改作されるようになるのが、ようやく戦国後期になってからであり、諸国に城下町が造られ、各地の統治者(戦国大名)たちはそれを発展させる目的で、古代より人里離れた場所に敷設されていた幹線道路を町内や町付近を通るように再整備しました。その好例として、天下人・豊臣秀吉が配下である備前国(現:岡山県東南部)大名・宇喜多秀家(秀吉の養子)に命じて、宇喜多の本城である岡山城の城下町を発展させるために、山陽道をわざわざ岡山城下町まで通るように再整備したのがあります。

 

 七道と呼ばれる中央政権(都)と諸国の官庁を繋いでいた官道は整備されていましたが、地方の諸国と諸国間の交通網は、租税(年貢)に耐えれない農民たちの逃散を手助けさせるということで、官道以外の道はほとんど整備されることがありませんでした。
 漸く地方諸国の官道以外が整備されるようになったのは、源頼朝が関東武士団の棟梁として鎌倉に日本初の本格的武士政権・鎌倉幕府を創設した後になります。当時の政治の中心地であった京都(畿内/西日本)から見れば、頼朝やその配下の武士団が拠る鎌倉(関東/東日本)というのは、湿地帯が延々と広がるろくに交通も整備されていない鄙びた(田舎・未開拓)地帯であり、京都に住まう朝廷や公家たちは、関東・その地に住まう人々を「東夷(あずまえびす)」と侮蔑していました。
 その東夷地帯に、忽然と頼朝を戴く武士政権が登場し、その本拠地である鎌倉と関東に存在する武士団(御家人)の領地を繋ぐ街道が開かれ始めたのであります。この街道を「鎌倉街道」と呼ばれ、頼朝に付き従う武士団は鎌倉街道を通り、有事が起これば「いざ!鎌倉」と叫んで、鎌倉へ参集したのであります。
 それまで京都と地方を結ぶ「官道(七道)」のみが主として整備されていましたが、関東という当時では全くの田舎で、中央政権(朝廷)かたしてみれば全く異種の武士政権が登場したことにより、地方と地方を繋ぐ街道が本格的に整備され始めたのであります。
 武士政権(鎌倉幕府)の登場は、それまで都に蔑まれ虐げられていた東国の卑賎の人々(武士=農民・開拓団)が決起し、自身の政権を打ち立てる日本政治史に大きな一石を投じる革命であったことが学者・研究者の皆様によって立証されていますが、日本の道路開拓史においても大きな変革でした。

 

 戦国期になると、中央政権の室町幕府(武士政権)および朝廷(古くからの中央政権)の権威は失墜し、地方諸国には幕府から任命されていた守護大名の姿は消え、実力で諸国を支配する戦国大名が登場します。戦国期(室町後期)は、農業生産力(第一次産業)が向上した時期であり、それに伴い商工業技術(第二次産業)も飛躍的に向上し、諸国には現代風に言うと「地方都市(山口・小田原・直江津・一乗谷など)」が発達してきまし、その経済力に拠って各地の戦国大名も勢力を伸張してくるようになります。
 地方都市の発達により年貢や物資の輸送の必要性が増し、全国に大小の戦国大名が群雄割拠している支配者によって各領国の陸上交通網も徐々に整備されるようになります。好例として、小田原北条氏が領国内の本城と支城間の連絡および輸送を円滑化にするための政策「伝馬制」、武田信玄が信濃国(現:長野県)を舞台として上杉謙信との戦いで行軍を有利にするために、本拠の甲斐国(現:山梨県)韮崎〜北杜の約25km間に軍事専用道路「棒道」を開設した事が有名であります。
 上記の小田原北条氏・武田氏が実施した交通整備は、飽くまでも各勢力内ごとの小規模な交通整備であり、強大な権力者(天下人)が出現しない限り、全国的な交通政策(道路整備)は行われませんでした。武部健一先生の名著『道路の日本史』(中央新書)には、『中世後期の戦国の時代には統一政権がなく、それゆえに道路史に刻まれるべき大きな出来事もなかったいうことである。』と書いておられ、中世初期にあたる鎌倉期以来、目立ったインフラ整備されていないことを嘆いておられるように見受けられます。また同著には、『室町期には道路や交通に対する施策は殆どなく、かえって多くの関所を道々に設けて関銭(通行税)を取るなど、後向きの政策しかとられていない』とも書かれており、室町・戦国期の陸上交通網は、古代から鎌倉期のような飛躍的な向上は見せないまま、人々から関銭を徴収することにより流通の活性化を妨げていたのであります。しかし、筆者の無い脳みそをひねって考えてみるに、室町・戦国の支配層が陸上交通網の整備や関所(関銭の徴収)を廃止できなかったのは、交通網を整備したら流通は活性化されるのは明白なのですが、敵対勢力を容易に自分の領国に攻め込まれる隙も見せることになり、関所は他勢力に対しての監視塔役割を果たしつつ、そこからあがってくる関銭も支配者にとっては欠かせない財源であったのです。
 関所(関銭の徴収)の差配に関しては、戦国大名が直轄していなくても、大名配下である有力国人や土豪が自分の領国に関所を設け、通行人から関銭を徴収していた場合が多々ありました。大名の中には、関所を廃し、領内の流通活性化を望む大名もいたのですが、大抵は国人たちに関所の設置を容認している場合が多かったのであります。何故ならば、配下国人の貴重な収入源(関銭)を剥奪することによって、彼らの戦力が減少することは明白であり、それは彼らの軍事力の上に成り立っている大名自身の戦力も減少するということにつながります。それ以前に、収入源を奪われた国人たちが大名に対して反旗を翻したり、敵方に寝返ることもあり得たので、大名たたちは、それを恐れて国人たちの関所設置を黙認していたのであります。これが至る街道に関所が膨大な数(後述)が存在した結果に繋がり、人や物資の往来の悪循環に拍車をかけていたことになります。

 

 

 諸国に拠る大名および領主、有力寺社たちは、領内が通っている街道に関所を設け、通行人から関銭を徴収していましたが、『伊勢街道の桑名〜日永間の4里(約15.7km)の間に60余りの関所が存在した』と言われています。これらを通る度に、関銭を徴収されていたのでは人も物資の流通も滞ってしまうのが当然の理であります。しかし、この関銭を徴収する立場(領主たち)からしてみれば、これは貴重な財源であったことも事実であります。信長に滅ぼされる比叡山延暦寺は、寺領・金融業と並んで、通行人から徴収している関銭が貴重な財源となっており、それらの財力で多くの僧兵(山法師)を抱え、下界の紛争(戦国大名同志の争い)に容喙していたのは有名な話であります。
 全国的に影響力を持つほどの強大な権力者が出現し、軍事的(防衛上の)理由に囚われず、街道を広く整備し、関所を持つ国人たちの離反を恐れず、関所を廃し、全国的に陸上交通網を整備し、流通の活性化を断行した天下の覇者が1570年代に登場します。皆様すでにご存知と思いますが、織田信長であります。この戦国きっての革命児が登場することによって、戦国期は揚々「流通時代の全盛期」を迎えることになります。
 次回の記事では、もう1つの流通経路であった「海路」の紹介、次いで天下の覇者・信長が断行したインフラ整備を順繰りに紹介させて頂きたいと思います。