織田信長の経済戦略記事一覧

 戦国時代のカリスマ・一番人気と言えば、誰もが知る『織田信長(1534〜1582)』です。信長という人物が、日本史上の人気英雄ランキングなどで、幕末の英雄・坂本龍馬と並んで1位か2位という上位に入るほど、我々現代人に人気がある理由を簡単に探ってみますと、主に以下の理由などが挙げられるのではないでしょうか。@『門閥重視の時代の中で、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)や明智光秀、滝川一益といった平民や浪人出...

 織田信長という人物は、現代でも最も高い人気度を見てもわかるように、非常に魅力に富んだ戦国武将の1人であることは間違いありません。その中でも、特に「信長」と「城」との関係性は極めて面白いものであり、同時代の他の上杉謙信・武田信玄・毛利元就たち他の有名武将と「城」との関係性とは明らかに一線を隔しています。 後者の謙信や信玄、元就といった幕府や寺社などを尊重する旧体制主義者たちにとって、「城」とは飽く...

 筆者が敬愛する歴史作家の司馬遼太郎先生の代表作『国盗り物語』は、斎藤道三・織田信長・明智光秀の3人物を主人公とした戦国時代小説ですが、その作品の第4巻(信長後編)で、司馬先生は、信長が、彼と敵対していた強力な宗教勢力・比叡山延暦寺を焼き討ちを敢行するのに対し、信長の家臣で旧体制の教養人でもある光秀が信長の所業を諌止する、という信長vs光秀の鬼気迫る遣り取り(問答)が書かれている場面があります。そ...

 平安末期〜鎌倉前期は日本仏教の一大変革期であり、現在でも連綿と受け継がれている殆どの宗派(日蓮宗や曹洞宗等々)は左記の時代に誕生しております。その中で浄土信仰を旨としている『浄土真宗』、後の戦国期に『本願寺派/一向宗徒』と呼ばれる巨大宗教勢力となる宗派も誕生しています。浄土真宗派が別名『一向宗徒』と呼ばれていた理由は、「『一向』に南無阿弥陀仏と唱え続けたから」だと言われています。 浄土真宗の開祖...

『信長はすべてが独創的であった』という一文が記してある書籍は、司馬遼太郎先生の最晩年のエッセイ『この国のかたち1(信長と独裁)』であります。確かに信長は戦国期当時にあって政治経済・軍事・人事といった様々な面々で彼ならではの独創的な政策や行動を採っていますが、それは今記事の主題である『城』に対しての使い道も信長は独創的でした。 筆者の他記事である「織田信長の引っ越し政策」でも紹介させて頂いたのですが...

 1568年、天下の富国というべき尾張国(現:愛知県西部)・美濃国(現:岐阜県南部)・北伊勢(現:三重県北部)を制圧した織田信長は、流浪の室町幕府将軍候補・足利義昭を奉じて上洛を果たし、他の戦国大名より一歩抜きん出た存在となりました。 信長の力によって、義昭は晴れて征夷大将軍に就任し、室町幕府15代将軍になりました。義昭は流浪の身から一気に武家の頂点である将軍になれたことに有頂天になり、信長を「吾...

 1575年、織田信長が徳川家康(兵力:3万5千)と共闘して当時戦国最強軍団と畏怖されていた武田軍(大将:武田勝頼、兵力:1万6千)を長篠設楽原の戦いで撃破しました。織田・徳川連合軍の勝因として、最新兵器・鉄砲(火縄銃)を大量に装備し、発射まで時間を要する鉄砲を大量有効活用することによって、遮断無く敵方の武田軍に撃ちかけ(「三段撃ち」)勝利した、という理由が有名です。織田徳川連合軍が大量に鉄砲を装...

 律令制度が興って以来、田畑から収穫される「米穀(租税)」が日本経済の根幹を成し、『農業経済主義』であった戦国期であるにも関わらず、織田信長が『商業=銭の力』を重視して、『商業経済主義』を打ち立てて、城下町の町割(都市設計)などを行い、そこに配下の武士や足軽(消費者)や多くの商工業者(生産者)などを城下に住まわせ、町全体を一大経済拠点として活性化させてゆきました。 戦国期当時は、動員時期などに限界...

戦国期随一の英雄/鬼才とされる織田信長が、当時では珍しく父祖から受け継いだ思想『銭の力』の信奉者であったことは、別記事にて度々述べさせて頂いていますが、その銭の力を産み出す「商業」という産業を活性化させるために、駿河今川氏や近江六角氏などの先輩有力大名が既に実施済みであった2つの経済活性化政策である、営業税のみ納税さえすれば、領国内で誰でも商工業を興せることを旨とした有名な「楽市楽座」、当時、全国...