水路交通の要衝・『湊(港)』の発展

古代(6世紀末頃)に律令制度が整えられることによって、畿内(中央政権、大和および山城)と地方を結ぶ東海道・山陽道といった古代官道の敷設(陸路整備)が本格的に行われるようになり、民衆宗教や武士政権が勃興した中世(平安末期〜鎌倉期)になると、地方と地方を結ぶ街道(参道や軍用路)も敷設され始めました。また戦国期になると、各戦国大名は、迅速な軍事行動および領内の商業物流発展を目的として、自領内での道普請などをに力を入れるようになってゆき、日本国内の各地方は、それぞれに拠る戦国大名によって徐々に陸路は整備させてゆくようになりました。
 しかし、それでも戦国期当時の陸路は、道幅が狭い上、町や集落から遠く離れた場所、山間などに街道が敷かれてあって利便や安全性も良くない上、現代のように輸送機器が発展していない当時では一度に多くの物資を運ぶのが大変であり、馬1頭で最大100キロ位までの荷物しか運搬できない状態であります。現在の大型運搬専用自動車の最大積載量10000キロ(10トン)と比較すると何とも貧弱な陸路輸送手段であります。しかも馬は当時でも貴重な家畜動物であったので、多くの庶民、および小規模な商家や行商人たちが多くの馬を運搬(荷駄)に使うということは彼らの経済力では難しいことでした。よって、戦国期では多くの馬を使い物資輸送を請負う「馬借」という輸送業者が経済的に力を持つようになってゆくことになり、その業者から有名な織田信長のパトロン的武家商人であり、織豊期に有力大名に成長してゆく「尾張生駒氏」が台頭してくるのですが、その生駒氏の紹介については、また別の機会に説明させて頂いたいと思います。
 兎に角にも、当時の陸路輸送の馬はとても高価で貴重な輸送手段であり、経済力に乏しい庶民や行商人では馬で物資を運ぶことは難しく、それを利用できない者たちにとって、物資を運ぶには「人力」のみに限るようになってきて、人間1人が運べる荷物量は馬に比べると微々たるものになってきてしまいます。また人が重い荷物を担いで、それを運搬してみても山間に敷かれている街道などを通っている時に、山賊などに襲撃されるリスクが多かったのであります。因みに人間8人分の働きをする(諸説ありますが)と言われた時代劇でもお馴染みの「大八車」は江戸期になって誕生する総木製運搬車であります。
 陸路における1度の最大輸送量が少なく、輸送中におけるリスク(襲撃など)に代わって、多くの荷物を一度に運搬できる「舟」が物流の主力となってゆきます。先程は馬1頭で運搬できる荷は約100kgまでと言いましたが、対して舟では、規模によって運搬重量の差異は出てきますが、小型舟1艘で「馬の約10倍の荷物(1000kg)が運搬できた」と言われています。
 陸路では馬や人力で限られた少量の荷物しか運べないのに比べて、約10倍以上の荷物を運搬できる利点を持つ舟(水路)ですが、舟輸送で別の利点を挙げさせて頂くと、陸路輸送よりも「早く運搬できた」ことであります。先述のように道幅狭く、交通に不便な山間に多く街道がある陸路、そこを歩いて人力で担いで物を運ぶ、これでは陸路輸送は多くの労力と時間が費やされてしまいます。対して、舟による水路輸送は、操作方法を覚えれば多くの労力を要さず、強風(悪天候など)や潮流によって要する時間を左右されることを除けば、殆ど障害なく迅速に目的地まで物を運べます。

 

 *水路輸送の主な2つの利点
@陸路よりも大量な物資を運べる。
A悪天候や潮流によって輸送状況は左右されますが、陸路よりも早く物資を運べる。

 

 この水路輸送の利点をフルに活かし、商品経済の根幹地である城下町に網の目の如く水路(運河)を張り巡らせ、町中に多くの物資が迅速に行き渡るような都市設計を大々的にやった人物が豊臣秀吉であります。信長亡き後、天下の覇権を掌握した秀吉は、天下の首都として摂津石山本願寺跡地に壮大な大坂城を築くと同時に、天下の政治・経済都市とするべく大規模な大坂の町割(都市設計)も行い、運河を整備しました。
 秀吉が造った大坂の運河網は、後年、豊臣氏滅亡後の江戸期でも更に新設および改良が加えられて、物流輸送が益々盛んになり経済が活性化され、大坂は名実ともに日本経済の中心地・「天下の台所」となってゆきます。因みに、秀吉の都市設計(水路/運河重視)を見本として都市設計されたがのが「江戸」であり、徳川家康が小田原北条氏滅亡後、秀吉によって先祖伝来の領地、三河国(現:愛知県東部)をはじめとする東海・甲信の5カ国から、殆ど湿地帯で覆われていた不毛地帯の江戸(関東)に転封させられた後、家康は新たな本拠地・江戸の町割を開始。同じく元は湿地帯であった秀吉の大坂の町割を見本として、湿地の埋立や多くの運河を開削してゆきます。江戸改め、現在の東京都内も多くの堀や運河がありますが、これは家康が大坂の都市設計を真似たのが始まりとなっているのです。

 

 閑話休題、余談が長くなってしまいました。

 

 迅速に多くの物資を載せる舟が通る「水路」、つまり『海路・運河・湖上交通』が戦国期を含める中世に大きく発展してゆくことになり、その状況に伴って水路の玄関口(中継点)にあたり人や物資が頻繁に行き交う『港』が交通の要衝および経済産業の発展地として繁栄してゆくことになり、強大な経済力(財力)を生み出すようになってゆきます。

各地方で発展した「港」とそれを有した強豪たち

 行商業が栄え、畿内などの日本中央から地方への物流が活性化した15世紀中頃の室町期(応仁の乱前後)から戦国期かけて、日本各地で水路の玄関口であった港が大きく発展しており、その最大規模を誇っていたのが畿内に在する泉州の『堺(現:大阪府堺市)』、『大津(現:滋賀県)ですが、その他にも各地方では以下の港が大きく発展しています。

 

@瀬戸内の「宮島(厳島)」「赤間関(現:山口県下関市)」
A日本海側では「美保関(現:島根県)」「敦賀港(現:福井県)」「輪島湊(現:石川県)」「岩瀬湊(現:富山県)」「直江津と柏崎(現:新潟県)」「酒田湊(現:山形県)」「土崎湊(現:秋田県)」「十三湊(現:青森県)」
B九州では「坊津(現:鹿児島県)」「博多津(現:福岡県)」
C東海から関東では「安濃津(現:三重県」「津島港と熱田港(現:愛知県)」「神奈川湊(現:神奈川県)」「品川港(現:東京都)」

 

以上では室町末期や戦国期にかけて主に発展した「三津七湊」を含める港町を紹介させて頂きましたが、これは一部であり、他にも繁栄していた港がありました。上記に列挙させて頂きました当時の有力港町を見ると、それらが存在する港を有することができた殆どの権力者たちは、戦国史上における強豪になっていることがわかります。即ち、「宮島」「赤間関」からは大内氏、後に毛利氏、「美保関」からは尼子氏、「敦賀」からは朝倉氏、「坊津」からは島津氏、「直江津と柏崎」からは長尾氏(上杉氏)、「酒田」からは最上氏、「土崎」からは安東氏(秋田氏)、「津島と熱田」からは織田氏、「神奈川」からは小田原北条氏、といったように最終的には滅亡する大名も存在しますが、いずれも戦国期に勢力を誇った大名ばかりであります。

 

 『港(湊)』を抑えるということは、戦国大名たちとっては、港が持つ『水上物流ルートや財力、工業力』を支配下に治めるということなので、正に強大な収入源でありました。この文のくだりを書いていて急に思い出したことなのですが、1997年に放送されたNHK大河ドラマ「毛利元就」の劇中で、故・緒形拳さんが演じられていた山陰の覇者である尼子経久が、高嶋政宏さん演じる孫の詮久(のちの晴久)に対して、『何よりも港を抑えることが肝心じゃ。城は二の次』と説教するシーンがありました。フィクションも含まれるドラマ中ではありますが、この経久と詮久との遣り取りは、戦国期当時に港が如何に重要であったかを顕したシーンであったことがわかります。実際、尼子氏が支配下に置いていた美保関などは、当時、尼子氏の本拠であった出雲国の特産で、重要な軍事資源であった「雲州鉄」を輸送する海上交易の一大拠点でした。

 

 (創作の世界とは言え)上記のように経久や、他の戦国大名たちが欲した『港』から得られる収入源は具体的にどれくらいあったのか?そのことを戦国史研究の泰斗でいらっしゃる静岡大学名誉教授・小和田哲男先生が著作(詳細は後述)の中で、推測ではありますが概算を書いて下さってますので、それを参照させて頂いて紹介してゆきたいと思います。

湊からの年収は一国の米穀収入に匹敵

 2011年〜2012年までNHK教育テレビ(通称:Eテレ)で毎週火曜日に、『さかのぼり日本史』という面白い歴史教養番組が放送されていましたが、その2011年10月4週分の放送回で、小和田先生がゲスト講師(語り手)としてご出演され、「戦国 富を制する者が天下を制す」というタイトルの下、三英傑を含める戦国大名がどの様な経済政策を行い、勢力を付けていった過程をわかりやすく解説されていたのが印象的でした。
 既に7年前に放送された番組ではありますが、現在でも有料会員制動画サイトU-NEXTで番組視聴が可能であるらしく、またNHK出版からも番組解説本としてソフトカバー版と電子書籍版が販売されているので、容易に当時放送されていた番組内容を詳細に知ることができます。
 筆者は電子書籍版『さかのぼり日本史7』を購入しましたので、その著書の中で、小和田先生は戦国期の港から得られる収入を以下のように計算されておられます。

 

 『(越後の上杉氏は)、直江津と柏崎という大きな湊を押さえており、出入りする船荷に関税をかけていました。彼らはその税を「船道前(ふなどうまえ)」と呼んでおり、2つの湊から徴収される船道前は、年間なんと4万貫(60億円)にのぼりました』(「伊勢湾舟運で巨万の富」の文中より)

 

 越後の強豪・上杉謙信が直江津と柏崎という湊から毎年得られていた4万貫の収入を戦国後期〜江戸幕藩体制期の経済指数となった「石高」に換算すると、「約30万石」の大名の収入に匹敵すると言われています。(武田知広先生 著『「桶狭間」は経済戦争であった』)
 30万石に匹敵する財源とは途方もなく大きな利益であります。謙信と死闘と繰り広げた名将たち、武田信玄は甲斐(現:山梨県)一国で「約22万石」、北条氏康で相模・伊豆の両国で「約25万石」。いずれも直江津と柏崎から得られる30万石相当の収入には及びません。
 謙信の本貫地は越後39万石であり、その領土から得られる米穀(主な財源)にプラスして、わずか2つの湊から得られる約30万石相当(4万貫)の副収入源があったようなものであり、越後一国で69万石の経済力を有していたことになります。69万石とは大勢力であり、その石高を基にして可能兵力動員数を簡単に計算(1万石につき250人の兵力)してみると、謙信は約1万7千の大軍勢を動員できるほどの実力を持っていると同様になります。(最も謙信が、その全兵力を合戦場に投入することは、領国や城に守備兵配置する諸事情などによって不可能でありますが)

 

 「平成の司馬遼太郎」と言われている磯田道史先生が司会をされているNHKBSプレミアムで放送されている歴史番組『英雄たちの選択』(毎週木曜 午後8時)で、上杉謙信を取り上げた時(関東から天下へ!〜上杉謙信の夢と野望、2017年2月1日放送)、磯田先生は以下のようにご発言されています。

 

 『戦国大名は、「田んぼ税=段銭」と「建物税=棟別銭」を領民から採るんですが、それ以外に『他の財布』を持っている奴は強いですよ。つまり『物産の専売』だとか、『金山』とか、あと『湊』を押さえる』

 

 先述の謙信以外でも、瀬戸内の天然の良港であった厳島、大陸貿易の出入り口となっていた赤間関を有した毛利元就。伊勢湾交易の重要拠点であった津島と熱田の湊を領していた織田信長。湊という一大経済拠点を支配下に置いた勢力は、いずれも戦国期を代表する大勢力となっています。戦国期当時の湊にはそれほどの力があったのであります。
 戦国期は、古代より続いている中国や朝鮮などの大陸貿易に加え、呂宋(ルソン、現:フィリピン)などの東南アジア諸国、ポルトガル・スペイン・イギリスなどの西洋諸国などの南蛮貿易も盛んに行われた海外貿易の隆盛期であり、日本各地の湊(特に西国)は大いに繁栄しました。江戸期になると、江戸幕府の方策によって海外貿易こその規模は縮小されましたが、それでも江戸期では日本国内における海上交通がいよいよ繁栄を極め、有名な「千石船(弁才船)」が誕生し、大坂〜下関〜北陸〜東北〜蝦夷(現:北海道)までを千石船(北前船)で物資を運ぶ「西廻海運」、大坂〜紀伊(現:和歌山県)〜江戸を物資で運ぶ「菱垣廻船」が台頭するようになり、海外貿易が衰えた江戸期になっても水路交通の隆盛期であることは変わらず、各湊は殷賑を極めてゆくことになります。