古今東西を問わず活躍する技術者たち

 古今東西を問わず、世の中は多種多様な『技術者/職人』が存在することによって発展してきており、その構図は未来永劫に不変なものであります。農・漁・商・工・運業などの産業で数多く存在する技術者の中で、1970年〜80年代の高度経済成長期では自動車や電機家具関連の技術者の人々が大いに活躍し、80年代生まれの筆者にとっては近未来の代名詞と感じていた21世紀となった2000年以降はコンピューター(IT)関連や人工知能(AI)に携わっている技術者の方々が大きな注目が集まるようになっています。
 上記の自動車やコンピューター関連の技術者というのは近代〜現代にかけて誕生した技術者たちでありますが、古今東西および人間の貴賤を問わず世間から常に信頼されている技術者が存在しています。その中の1つが、今記事で紹介させて頂く『番匠/大工』であります。一サラリーマンであろうが国政を担う高級官僚であろうが、どんなに機械などの技術進化を遂げようが、人間は衣食住の1つが欠けても生きてゆくことは不可能であり、その『住(家屋を建てる)』という一大要素を担ってくれる大工さんも立派な技術者の1人であります。
 上記の原理は、戦国期でも変わらぬことでありますが、寧ろ当時の方の大工(番匠)の方が、朝廷や寺院、戦国大名などの権力者から大いに優遇されている職人技術集団であったのであります。余談になりますが、戦国期を下って、江戸中期の江戸に住まう庶民の子供たちの憧れ職人のNo.1は大工であったと言われています。「大江戸八百八町」と称せられるほどの世界有数の木造建築大都市となっている江戸市街で鋸や鉋を巧みに操り、手際よく多くの家屋を建ててゆく大工は、江戸児童の羨望の職業であったのです。

「地方が主役」となり、番匠の活躍が増える戦国期

 戦国期でも、食を担う「百姓や漁民」、商を担う「商人(町衆)や問屋」、運送業の「馬借」、刀剣・鉄砲などの武具、ひいては鍬などの農具製造を行う「鍛冶師」、甲冑を造る「鋳物師」、など様々な技術者が存在し当時の発展に貢献しましたが、建築業に従事する『番匠(ばんしょう)、即ち現在の大工』、そして建築業に欠かせない木材を調達する『杣師(そまし)』『大鋸師(おおがし)』も貴賤を問わず、重宝された技術者たちでした。
 戦国期(室町後期)は、第一次産業である農業生産力が以前よりも飛躍した時代であったので、全国的に人口が増加。その現象に伴って、それまで当時の首都圏であった京都を中心とする畿内のみに発展が限定されていた商工業や流通業も、鄙(地方)でも殷賑を極めるように、全国は「貨幣経済」の盛期を迎えていました。また応仁の乱により京都が荒廃したことにより、公家や僧侶などの京都人、即ち当時の一流文化人たちが地方の権力者(戦国大名)たちを頼って、地方へ下向していくことも重なり、地方都市の発展に拍車を掛けることになります。俗に「小京都」と呼ばれる現在の地方都市はその名残りと言えるのですが、大陸貿易で強大な経済力を誇っていた周防・長門国(現:山口県)の大内氏の城下町であった山口は、「西の京都」と謳われるほど栄えた地であり、他にも越前国(現:福井県東部)の朝倉氏の本拠地であった一乗谷も城下町として大いに栄えたことは有名であります。
 東京大学史料編纂所の教授・本郷和人先生は、名著『日本史のツボ』(文春新書)の中で、戦国期のことを『日本史上初めて地方が主役となる時代の到来』(第5回「地域を知れば日本史がわかる」文中より)と記述されていますが、正に戦国期は『都から地方へ』という始まりだったのです。

 

 以上のように、当時の首都圏である京都を含める畿内では応仁の大乱により荒廃、その難を避けて地方へと人々が避難・移住していくことにより、稲作には欠かせない治水工事、人々が住まう家屋や町屋の需要が一気に高まると同時に、各地方を治める有力者=戦国大名や国人衆も、戦乱に備えて本拠地となる城砦を築城改築する最盛期を迎えていたので、建築業には欠かせない番匠、材木を用意する杣師や大鋸師などの活躍の場は拡がり、各地の有力者たちはより優れた番匠たちを自勢力に迎え入れるべく、苦心するようになります。

番匠(大工)を取り込みに熱心になる戦国大名たち

 現在、家屋などを建築する職人を愛称を込めて『大工さん』と呼ぶことが多いですが、小学校の頃より図工時間の木工授業で、ろくに鋸や金槌を上手く使えず(絵画など芸術も苦手ですが)、先生に叱責され続け、外見のみ大人になった現在でも毎回の大工作業で散々な目に遭っている筆者からしてみれば、状況に応じて大工道具を巧みに取り扱い、家やモノを造ってゆく大工さんは「神の手を持つ職人」と感嘆しきりなのであります。
 筆者が常日頃、羨望の眼差しで見ている職人・大工という名称は本来、『様々な職人(技術者)のリーダーおよび最高位』のことを意味するものであり、戦国初期(16世紀初め)までは鍛冶師のリーダーを「鍛冶大工」、家屋の屋根を葺く職人・葺師(ふきし)の長は「葺師大工」と呼ばれており、家屋などの建築業(所謂、現在の大工業)に携わる職人は『番匠』と一般的に呼ばれていました。現在のように建築業に携わる職人のみを大工という呼称が定着してゆくことになるのが、16世紀末・戦国中期になってからであります。
 因みに、現在でも大工職人のリーダーあるいは建築現場監督のことをを「棟梁」と尊称することが一般的ですが、これも戦国期に定着したものです。戦国期以前は、寺社や領主に属して限定的な仕事のみに従事していた大工(番匠)たちでしたが、先述のように戦国期の各地方では城砦や町の建築ブームで沸き立ち、大工たちの活躍の場が拡がり、職人の数も急増します。それに伴って建築界では、大工たちが大々的かつ組織的に動くことが世間で求められるようになりました。そこで大工たちを組織的に束ねるリーダーが必要となります。そして大工リーダーの呼称は、それまで武家(好例:源氏の棟梁)・僧侶社会のリーダー名であった「棟梁」が当てられるようになり一般的に定着していったのです。

 

 笹本正治先生の名著『実録 戦国時代の民衆たち』(一草舎出版、以下『本書』)の第3章『戦国の技術者たち』の文中で以下の通りに記述されています。

 

 『戦国時代は城や城下町の建設によって建築関係者の需要が急激に増え、地域ごとに職人のまとまりが形成されました。(中略)戦国大名は自分が戦乱を勝ち残ってゆくため、経済力を大きくし、最新の技術を確保しようと、職人たちを支配しようとしました。領内に職人が少ない時期には知行を与えたり、諸役を免除したりして、彼らを呼び寄せ、いつでも使役できるようにしました。』

 

 上記のように戦国大名(領主)たちは、平時には城や家屋を建築および改築の必要技術を有し、戦時の際は陣地や櫓、柵などを構築する工兵隊のような役割を担ってくれる大工(番匠)をはじめ、その他の技術職人を招聘するために知行(給料)を与えたり、諸役(税金)を免除する優遇策を職人に採っています。その例として、笹本先生は『本書内』で、1575年、甲斐国(現:山梨県)の戦国大名・武田勝頼は、当時武田領となっていた駿河国にある花沢城(現:静岡県御殿場市)に詰めていた甲斐石橋(山梨県笛吹市)の番匠・新五郎左衛門尉に対して、本来番匠として勤めるべき役(「水役のお細工=諸職人に賦課した賦役」)を免除していることを挙げています。
 武田氏の他にも、相模国(現:神奈川県西部)を中心に勢力を誇った戦国大名・後北条氏も本拠地である小田原城に様々な職人を招聘することに力を注ぎ、2代目当主である北条氏綱の代には積極的に職人招聘政策が実施され、西は京都や奈良、東は鎌倉から多種多様の職人集団が招聘され、後北条氏や後の小田原市の発展の礎となりました。氏綱は1532年、6年前に安房国(現:千葉県房総半島一帯)の里見義尭との戦いで荒廃していた関東武士の聖地というべき鎌倉鶴岡八幡宮を再興事業に着手した折には、わざわざ奈良の興福寺や京都の宮大工を招聘したことは有名であります。因みに2代目・氏綱が優遇した職人の1人の中で、銘刀正宗で知られる鎌倉期の名門鍛冶師・正宗五郎の11代目の子孫がおりましたが、氏綱は自身の名前の一字「綱」と鎌倉にある無量寺ヶ谷(現:鎌倉市)の領地を正宗の子孫に与え、その人物は綱廣と名乗り、その後の子孫も代々綱廣を名乗り、無量寺ヶ谷も綱廣谷とも呼ばれるようになりました。
後北条氏の軍事力および経済帳簿というべき『小田原北条所領役帳』によると、氏綱嫡男である3代目当主・氏康の代なると領内の伊豆、三島、奈古屋と多田(ともに静岡県伊豆の国市)・の4カ所では、鋸引・切革・青貝師・石切・鍛冶・金工・組紐師などの多種な職人集団が存在していたことが記されています。現在でも小田原市は南関東有数の水源豊かな地として有名でありますが、氏康の代に、北条氏によって招かれた番匠や石切職人たちが中心となって開かれた日本最古の上水道と呼ばれる「小田原上水(早川上水とも)」が礎となっています。
 以上のように、戦国期を代表する地方の有力大名・甲斐武田氏や後北条氏は、番匠を含める多くの職人を招聘することによって、自国の経済力や技術革新を図っていたのでありますが、先出の笹本先生は本書内で、地方の戦国大名たちが職人を誘致することによって、もたらされた結果を以下の通りに記されておられます。

 

 『戦国大名の動きや職人組織や商人の活動を通じて、地方の城下町や国、更には分国がひとつの経済圏としてまとまっていきました。現在につながる地方ごとの経済的結びつきは、この時期に出発したといえるでしょう』(本書内、第3章戦国の技術者たち/「大工から棟梁へ」文中より)

 

 また先生は当時の大工(番匠)の存在意義を、『番匠は戦国時代の底辺を担う役割を負った職人のひとつだったのです』(同章 「戦国大名と番匠」文中より)と評した上で、戦国技術者の1つである番匠の紹介を纏めています。

 

 

 番匠/大工は現在でも欠かせない職種でありますが、戦国期でも必要不可欠の職人であり、現在以上に戦国大名たち権力者から優遇される身分が高い人々であったのであります。