魅力溢れる「蒲生氏郷」という傑物

筆者は蒲生氏郷という戦国期に誕生した類稀なる傑物が好きであるので、国人領主の紹介記事で近江日野蒲生氏について紹介させて頂いたのですが、その折には筆者の蒲生贔屓の気持ちが強くなってしまい、氏郷の先祖たちの紹介で思った以上に長文となり、肝心の氏郷についてまで執筆できなくなってしまったので、今記事では漸く氏郷について書かせて頂きたいと思います。

 

 蒲生氏郷は家臣からの信望が厚い魅力の持ち主であり智勇優れた武将であったのみでなく、文物(詩歌)にも造詣が深く、戦国期の一大流行カルチャーであった茶道にも精通しており、茶聖・千利休の高弟である「利休七哲」の1人にも数えられいる戦国期トップクラスのインテリ武将でありました。天下人・豊臣秀吉に対してでさえ反骨精神が強かった茶人・利休ほどの大物でも氏郷のことを『御年も若く、文武二道の御大将にて、日本において、一人二人の御大名なり』(「備前老人物語」より」と絶賛しております。
 そればかりか、氏郷の主君というより、師匠格であり舅でもあった天才・織田信長から優れた都市設計を学びとり、町割り(城下町建設)で非凡な才能を発揮した信長譲りの『天才デベロッパー』でもありました。現在の三重県松阪市、福島県会津若松市という有名な地方都市の原型は氏郷が造り上げたものであります。筆者が大いに私淑しております司馬遼太郎先生も『街道をゆく33 白河・会津のみち』(朝日文芸)で、『氏郷の人生は、松坂と会津若松という二つの都市を設計したことが後世への功である』という意味合いを書かれておられます。
 文武・詩歌・茶道・都市設計などに通暁し、将兵の心も掴むことにも長けていた器量の持ち主であった氏郷。これは決して過大評価ではなく、その証拠として自身の家臣の能力の有無について非常にうるさかった信長・秀吉という2人の天下人から大いに気に入られ、信長からは婿として迎え入れられ、秀吉からは最終的(1590年)に奥州の要として会津若松92万石という、秀吉の古き盟友である加賀国(現:石川県南部)を中心に北陸を領する前田利家でさえ83万石をゆうに超えるを大領を与えられ、徳川家康は氏郷を味方に引き入れるべく氏郷嫡男(次男説もあり)である秀行に三女の振姫を嫁がせて蒲生氏と誼を通じることに力を注いでいます。
 1590年、秀吉が天下統一の総仕上げとして関東の覇者・小田原北条氏を滅ぼし、次いで伊達政宗や最上義光といった名将が拠る奥州も平定した後、氏郷は奥州の伊達政宗58万石、東海・甲信地方150万石から関東八州250万石に転封となった徳川家康の抑えおよび牽制役を秀吉から期待され、陸前黒川(会津若松)92万石の太守に任命されました。以前まで東北で暴れ回っていた好戦的な政宗、豊臣政権下最大勢力になった家康といった強豪連中に常ににらみを利かせて、有事の際に彼らを抑えられる力量を持っていたのは氏郷ぐらいでした。一説には、秀吉が先の天下の覇者・信長にもその力量を愛されたほど氏郷を惧れて、中央に近い伊勢松坂12万石から遠ざけるために、遠く離れた奥州に広大な領土を与えて、氏郷を中央から締め出したという逸話がありますが、秀吉ほどの大物がそのような真似をしたのではなく、氏郷の器量を見込んで、豊臣政権の影響下が弱い奥州および関東の監視役を期待したのが、氏郷が奥州に置いたのが本当の理由でしょう。

 

 戦国武将の超人気者である伊達政宗関連作品では、氏郷は政宗と事あるごとに対立する敵役であり、最終的には政宗の並外れた機略と行動力によって煮え湯を飲まされるという損な役回りをさせられていますが、史実では氏郷の方が政宗よりも遥かに智勇が優れた戦上手で、教養が豊かな人物であったでありました。それにも関わらず何故、政宗の方が現代でも人気であり、氏郷はどちらかと言うと存在感が薄く、陰の役どころが多いのかと言うと、それは氏郷が稀有な器量を有していたにも関わらず、その器量を十二分に発揮する以前に、1595年2月に40歳という壮年期で夭折してしまったのが一番の原因でしょう。またそれに加え、氏郷亡き直後に蒲生家中で、後年「蒲生騒動」と呼ばれる重臣間の対立が発生。これが主因となって非秀吉は蒲生氏を会津92万石の有力大名から下野宇都宮12万石の一大名となる大減封を受けて家運が傾き始め、関ヶ原では家康(東軍)に味方したので会津60万石で大大名に復帰しますが、江戸期なって何れの当主も早死にしてしまい継嗣が絶えたために1634年に蒲生氏は幕府によって改易されたことにより、後世まで家名を存続させることができなかったのも氏郷人気に歯止めを掛けているような気がします。
 氏郷死後の5年後に再び天下争乱となった関ヶ原の戦いが起こり、西軍の石田三成と東軍の徳川家康らは、己が持つすべての智勇や外交術、財力を賭して戦ってゆくことになるのですが、もしその頃も氏郷が健在であったら、三成、家康を含める諸大名も氏郷という存在を無視して事を起こすことは不可能であったことは間違いなく、これは筆者の勝手な想像ですが、関ヶ原戦役は発生しない、もしくは東西両軍に続く第三の勢力の旗頭になっていた可能性が十分あり、いずれにしても戦国末期の歴史も我々が知るものとは完全に違っていたものになっていたでしょう。氏郷にはそれほどの力量と地盤(石高)を持ち合わせており、その死は歴史に大きな転換点を与えたのであります。

織田信長に愛された氏郷の器量

 氏郷が誕生したのは1556年、戦国期真っ只中であり、当時の織田信長は未だ22歳の青年で、父・信秀の急逝(1551年)を受けて織田弾正忠氏の当主を相続、未だ尾張国(現:愛知県西部)の一部を領有している弱小大名であり、その上信長を当主として戴くのを快しとしない一門衆や重臣たちの反発に四苦八苦している内憂外患の時期でした。

 

 氏郷は南近江国(現:滋賀県南部)蒲生郡日野城を本拠し、近江の守護大名・六角氏の有力家臣である蒲生賢秀の三男として誕生、幼名:鶴千代。祖父・定秀の代から蒲生氏は戦乱の世により衰退してゆく主家・六角家中において宿老として、主家を上回るほどの勢力基盤を築き上げてゆきましたが、それでも定秀と賢秀は主家を最後まで見捨てず、1568年、信長に主家が滅ぼされるまで忠誠を尽くすほど義理堅さがありました。
 祖父・定秀という人物は、外交・内政に余程優れた器量の持ち主であり、外では伊勢国(現:三重県)の有力勢力であった神戸氏や関氏と婚姻関係を結んで北伊勢にも蒲生氏の勢力を伸張させ、内政面では日野城とその城下町を築き、後の高名な伝統産業・会津漆器の原型となる「日野椀」の生産を奨励、また鉄砲生産にも独自に着手して、日野城下に鉄砲鍛冶職人を招聘するなど、特に商工業に功績を残しています。日野城下町は江戸期の商工業界の重鎮中の重鎮となる「近江商人」の発祥地の1つになりますが、その近江商人飛躍の原型は定秀がつくり、孫の氏郷がそれを応援することによって大きくした結果となります。

 

 祖父や父が築き上げた『義理堅い家風』および『商工業が発達する日野城下町』という環境で育ったことが天下にかくれなき名将、名デベロッパーとなる氏郷の土台になったことは間違いなく、尾張という当時でも商工業・物流が盛んな環境で育ち、天才的な商才を身に付けた信長も、氏郷には同じ匂い(あるいは同族意識、商才)を敏感に感じ取ったはずであります。
 1560年・桶狭間の戦いでの勝利を経て、1567年には信秀の頃よりの宿願であった美濃国(現:岐阜県南部)を制圧して着々と勢力を伸ばしてきた信長は、1568年9月7日には流浪の身であった室町幕府将軍候補・足利義昭を奉じて上洛軍を起こし美濃から西上を開始し、同月13日には蒲生氏主筋であり、反信長勢力となっていた六角氏を観音寺城の戦いで滅ぼしました。
 六角氏滅亡した後も賢秀は、麾下の1千の将兵と共に日野城に籠城し、信長の大軍を迎え撃つ覚悟でした。そこで織田上洛軍に従軍していた賢秀の妹婿である北伊勢の神戸具盛が単身日野城に赴き、賢秀に降伏するように説得。義弟の説得によって賢秀は信長に降伏することを決意し、その証拠として少年・氏郷(鶴千代、当時:13歳)を信長の下へ人質として送ることになります。

 

 『(註:氏郷が)信長の下へ送られたことが)幸いした』と、司馬遼太郎先生は『街道をゆく33 会津白河のみち 「市街に眠る人びと」内』で書かれておられる通り、賢秀に伴われた氏郷少年と目通りした信長は氏郷の器量を見抜き、『蒲生が子息目付は常にあらず只者ではない。我が婿とする』と直ちに賢秀に約定したそうです(『氏郷記』)。つい先日まで頑強に抵抗した敵方で降伏したきたばかりの蒲生氏は、氏郷という「只者ではない」少年によって、一挙に織田氏の姻戚となったのであります。また、信長が近侍の者共を御前に集め、夜更けまで軍談を語ってるのを氏郷は、眠りもせずに軍談に傾聴していたそうです。この氏郷の熱心な姿勢を見ていた美濃斎藤家の重鎮(美濃三人衆)の1人であり、主家滅亡後は信長に仕えるようになった文武に優れた「稲葉良通(伊予守、号:一鉄、「頑固一徹」の語源となった人物)」は、氏郷のことを『蒲生の子は只者ではない。将来必ず武勇の大将になる』(「蒲生氏郷記」)と太鼓判を押したそうです。
 信長の娘婿となった氏郷少年は乳人(守役)であった町野左近と共に信長の本拠・岐阜城に伺候することになり、同地で元服。信長自らが烏帽子親となり、信長の官職である弾正少忠の「忠」の一字を賜り、『蒲生忠三郎賦秀(やすひで)』と名乗るようになります(『氏郷記』)。
 元服した1年後の1569年、若武者・賦秀こと氏郷は、信長に従って織田氏に未だ敵対している南伊勢の名門戦国大名(旧国司)である北畠具教・具房父子攻め(大河内城の戦い)に出陣しています。これが氏郷の初陣となるのですが、デビュー戦早々にして、後々まで智勇兼備の戦上手と謳われるほどの将器の片鱗を見せ付け、先述の稲葉良通が絶賛した通りの活躍をしました。そして、北畠攻めの後、かねての約定通り、氏郷は主君・信長の次女(相応院、名前不明)を娶り、織田氏の外戚となったのであります。氏郷14歳、信長の次女8歳という少年少女カップルでしたが、夫婦仲は良好であり、氏郷は有名な黒田如水(官兵衛)・直江兼続・明智光秀・石田三成と同じように、武将には珍しく側室を置かず、一夫一妻を生涯守り通しました。この点を見てみても、氏郷の律義さがわかります。
 信長の娘婿となった氏郷は、早速故郷である日野城に戻されており、以降は父・賢秀と共に信長に従い、各地を転戦します。越前朝倉攻め、姉川の戦い、伊勢長島攻め、小谷城攻め、長篠の戦いといった天下統一を目指す信長の主要な合戦に従軍しており、その都度、武功を挙げたそうです。
 上記の期間(1570年〜1575年)は、信長は周囲を敵対勢力に囲まれた四面楚歌状況下であり、彼最大の受難の時代でしたが、氏郷や父・賢秀は離反せずによく信長に付随い、各地を転戦しています。信長の方でも蒲生父子に対する信頼は益々厚くなり、氏郷は自軍に従軍させ、老齢に近づきつつある賢秀には自分の居城である安土城の留守居役にするなどの厚遇ぶりでした。以下のことは筆者の勝手な想像でありますが、信長とそれに従う氏郷が忙しく周囲の戦場を駆け巡っている時期に、氏郷は少年期と同じように眠るのを忘れて信長の軍談から熱心に戦の仕方を学んだように、信長から直に大名たる心得や外交方策、領国経営などを学んでいたのではないでしょうか。信長の方でも、日野という商業圏で育ち経済感覚に富んでいた氏郷に、「これからの世は、『物と銭の戦』が重要になる。だから多くの物と銭を自分に集めることが重要になってくる」のように、商工業の奨励、城下町の建設などを中心とした領国統治を教えた可能性が十分にあります。

 

1582年6月、舅であり師匠でもあった信長が重臣・明智光秀の謀反「本能寺の変」で死去した際、この時氏郷は信長には随っておらず災難から免れており、信長横死を知った氏郷は、勿論明智方には加担せず、当時安土城の留守居をしていた賢秀と協力し、いずれ進攻してくる明智軍から信長の遺族(妻妾など)を護るために、安土城から蒲生氏の日野城へ避難させています。安土城・長浜城(秀吉の本拠)・佐和山城(丹羽長秀の本拠)など近江国内の拠点を接収した明智軍は、氏郷たちが籠る日野城も攻略目標としますが、結局、中国地方経略司令官であった羽柴秀吉が交戦中の毛利氏と和睦し、有名な強行軍「中国大返し」に成功し、山崎の戦いで光秀を撃破したので、日野城攻めは免れています。

 

 氏郷は信長亡き後の強大な織田政権を乗っ取る形で天下に台頭してきた秀吉に臣従することになり、以後、秀吉の天下統一事業を扶けてゆくことになります。これと前後して氏郷は正式に賢秀から蒲生氏の家督および所領(約6万石)を譲られ、蒲生氏当主なっています。
 秀吉に従った後の氏郷も、賤ヶ岳の戦い(1583年)・小牧長久手の戦い(1584年)といった秀吉政権確立には欠かせない主要な合戦で活躍し、小牧長久手合戦の局地戦であった菅瀬合戦では敵方ら鉄砲で狙撃され、氏郷の兜「鯰尾」に弾3発が命中したほどの激戦を繰り広げています。戦後、氏郷は秀吉によって伊勢松ヶ島12万3千石を与えられました。松ヶ島城は伊勢神宮の参詣路沿いあり、伊勢湾が面する海陸交通の要衝でありましたが、大規模な城下町を形成するには手狭であったために、氏郷は1588年、それまで人煙もまれな地であった飯高郡矢川庄四五百森に新平山城の築城を開始、その新城は「松坂城」と名付けられ、現在の松阪市の歴史はこの時から始まりました。
 氏郷が領し改名した地である「松坂」、「会津若松」のいずれにも「松」の字が含まれていますが、これは蒲生氏累代の本拠であった日野城近くにあった馬見岡綿向神社(蒲生氏の氏神)の参道沿いにあった『若松の森』の松の字から由来していると言われています。また別説があり、司馬先生は『街道をゆく33』の中で、『氏郷は、古今・新古今の風を継ぐ歌人でもあった。「古今集」の美学では松の緑を四季かわらぬものとしてめでるが、氏郷はそれによってこの地を松坂とした。坂の字は、大坂(のちの大阪)の町をつくった秀吉から一字借用の許可を得たといわれる』と書いておられます。

現在でも続く地方都市の礎を築いた氏郷

 氏郷は総石垣の立派な松坂城と共に城下町の建設にも着手し始めます。ここから氏郷のデベロッパーとしての才能が本格的に開花してゆくことになります。先ず、それまで松ヶ島城下の商人や町人を松坂城下へ移住させた上、伊勢神宮の参道も松ヶ島から松坂に敷設する道普請を行い、松坂城下町の物流ルートを確立することに努めています。そして、故郷の近江日野から蒲生氏が庇護していた商工業者の誘致を行い、城下町の発展に力を入れています。この氏郷の熱心な城下町建設や商工業者誘致などの経済発展政策は明らかに信長、その覇権を継いだ秀吉の経済政策を受け継ぐものであり、司馬先生はこのようなデベロッパー・氏郷ことを以下のように評しておられます。

 

 『秀吉の天下構想は、日本国のすべての商品の市を大坂に立てることにあったが、氏郷は松坂を小さな大坂にしたかったのであろう。そのことは、松坂の地で大坂以上の大商人を育てようとしたことでもわかる。』

 

 『のちに日本的な大商家を形成する三井家なども、そういう蒲生文化が生んだともいえなくはない。三井氏は、元来近江蒲生郡の出で、蒲生氏の配下の国人だった。やがて三井越後守高安が、氏郷の伊勢入りとともに移って、ここを根拠地として商業を営んだのである。松坂ではほかに、長谷川家、小津家、長井家、殿村家、坂田家などといった商家がのちに全国規模の金融業や商業をおこすことになるが、おそらく当時の松坂の活気はただらなぬものであったにちがいない。』

 

 『ともかくも、氏郷の築城設計と都市設計(町割)、さらには、商工業者を中心とする領国経営の能力はただごとではない。』

 

(以上、『街道をゆく33 奥州白河・会津のみち』本文より)

 

 三井家は説明不要なほど皆様よくご存知の三井財閥が誕生する家系で、現在でも老舗デパート「三越」を経営する日本を代表する大企業であり、小津家からは現在でも医療用の紙などを生産する「小津産業(グループ)」、長谷川家は、江戸期に木綿商で大成功を収め、最盛期には江戸大伝馬町一丁目に5軒の出店を構えるなどの江戸商業界をリードする豪商となります。「三井」「小津」「長谷川」の3家を「松坂三大豪商」と呼ばれていますが、これも全て氏郷の松坂の地を切り拓いたことと、商工業保護政策がはじまりとなっており、氏郷の功績は江戸期どころか、現在の日本経済にも大きな足跡を遺していることになります。
 上記に続く余談を述べさせていただくと、やはり氏郷の師匠格である信長によって、現在の日本を代表する大企業が誕生しています。それが東海地方の一大デパートである「松坂屋」は信長の側近であった伊藤祐道(通称:蘭丸)が名古屋で呉服商を始めたのが始まりであり、また東京タワーや東京ドームなどの5大ドームの建築に携わった「竹中工務店」も信長の普請奉行を務めていた竹中正高(通称:藤兵衛)が名古屋で神社仏閣の造営業を開業したのが嚆矢となっています。信長・氏郷という商才/デベロッパーの師弟は、現在の日本経済に多大な功績を残していることがわかります。

 

 1590年、天下人・秀吉は、遂に東国の覇者であった小田原北条氏、奥州の伊達氏などの諸大名を降し、天下統一の偉業を成し遂げました。そして秀吉の大事業を良く輔弼してきた氏郷は今までの功績を賞され、伊勢松坂12万石の中大名から一躍、奥州黒川92万石という広大な領土を与えられ、氏郷は名実ともに豊臣政権を代表する有力大名までになりました。氏郷が封られる前の奥州黒川は、長らく東北の名門大名であった芦名氏の本拠地であり、その芦名氏が伊達政宗によって滅ぼされた後は、政宗が一時的ながらも本拠としていました。芦名、伊達の本拠地になるほどの黒川という地は拓けた場所であったらしく、戦国期(つまり芦名氏統治時)の黒川城下やその領内では盛んに市が開かれた東北でも商業が盛んであったそうです。黒川の地に、このような地理的利点があったことは、商工業主義者であった氏郷には良かったことだったのではないでしょうか。
 黒川城に入った氏郷は、黒川という地名を『会津若松』と改名した上、ここでも自分好みの城の改築(つまり天守閣を戴き総石垣の近代城郭)および城下町建設を行います。

 

 『会津に入った氏郷は黒川の地に七層の天守閣をもつ巨城を築いた。奥州一円で、最大の城郭であった。』

 

 『町割もし、商工業の基礎もつくった。かつて氏郷とともに伊勢松坂に移った蒲生郡の日野商人たちが、こんどは会津までやってきて、城下に日野町(のちの甲賀町)という商工業の町を形成した。』

 

(以上、『同上書』本文より)

 

 蒲生郡の日野商人たちも氏郷に随って、遥か北国の会津に向かったということを見てみても、氏郷が商工業者を厚遇し、彼らに好かれていたかがわかる一方、当時(16世紀末)の経済の中心圏であった畿内・東海などから離れ、未だ畿内に比べ草深い田舎で、商工業が発達していない奥州までに下り、新たなビジネスチャンス(商圏開拓)を掴もうとする日野(近江)商人のフロンティア精神の強さを感じられます。
 氏郷死後、会津の主は上杉景勝や加藤嘉明と変遷してゆき、最終的には保科正之(江戸幕府2代将軍徳川秀忠の庶子)が入国し、この保科(松平)氏が幕末まで有名な会津松平藩として続いてゆくのですが、その会津藩政の財源を支えた1つに伝統工芸「会津漆器」がありますが、元を辿れば、会津漆器の礎を築いたのも氏郷であり、氏郷が会津にも新産業を興そうと考えて、故郷・日野町の伝統産業となっていた「日野椀」の木地師・塗師などの職人を会津に招聘したのが会津漆器のはじまりであります。事実、現在でも会津若松市内にある氏郷墓所(臨済宗興徳寺)の説明板の文中には、『氏郷の生涯は実に短いものであったが、会津漆器の奨励など政治産業文化の上に遺した功績は実に不朽である』と書かれてあり、現代の会津若松市でも氏郷が遺した都市設計、産業奨励などを大きく評価しています。

 

 1592年、氏郷は秀吉が敢行した第1次朝鮮出兵(文禄の役)で、秀吉に従い国内の最前線基地であった肥前名護屋城(現:佐賀県唐津市)に滞陣している頃に体調を崩し始めて、1593年に会津へ帰国。しかし未だ体調が回復せず、1594年には上洛して治療に専念することになります。この間、秀吉も氏郷の重態ぶりを心配し、当時、天下一の名医と言われていた曲直瀬玄朔を派遣し、氏郷の治療にあたらせる一方、徳川家康や前田利家にも氏郷に医師を派遣するように命令しています。しかし、曲直瀬などの治療も虚しく、氏郷は1595年2月7日、京都伏見の蒲生屋敷で病没します。享年40歳。

 

 天下の覇者・信長にその器量を愛され、天下人・豊臣秀吉に信頼された才知の持ち主であった戦国一のインテリ武将であった蒲生氏郷は40歳で夭折してしまい、氏郷亡き後の蒲生氏は決して幸運に恵まれた大名家ではありませんでした。家中内紛、宇都宮への減封、会津地震による甚大の被害、そして父・氏郷と同じく秀行(享年:30歳)、秀行嫡男・忠郷(享年:27歳)、次男・忠知(享年:31歳)といった全ての当主たちが相次いで早死にした結果、1634年、近江蒲生郡日野から興った戦国期の名族・蒲生氏は滅亡したのであります。