上杉謙信の京都外交を支えた外交官・神余氏

戦国最強と謳われた上杉謙信は、天才的な戦才に匹敵するほどの持ち前の商才を活かし、支配した越後国(現:新潟県)の特産物、国内に有する直江津/柏崎などの良港を把握することにより、莫大な財力を手に入れ、それを元手に数回にも及ぶ大掛かりな遠征(川中島の戦い関東出兵など)を敢行すると同時に、越後支配をより確固たるものにするべく当時の中央政権であった朝廷・室町幕府から大義名分(越後守護職)を得るために必要な外交工作費も捻出することが可能であった、謙信の強力な経済力についての紹介は以前させて頂きましたが、今回の記事では、経済力と同じく、謙信の京都外交を支えた人材面(外交官)について紹介させて頂きたいと思います。

 

 上杉謙信と言えば、合戦に滅法強く、彼が従える越後武士団も精強揃いで有名であり、中でも柿崎和泉守景家・色部修理亮勝長などは川中島の戦いなど謙信主要合戦で大きな戦功を挙げた百戦錬磨の猛将として当時でも知られ、無敵・越後上杉氏の「武」を担っていたのですが、京都外交を司っていたのが『神余親綱(かなまりちかつな 隼人正)』という人物でありました。織田信長は村井貞勝、徳川家康は板倉勝重・重宗父子といった武将官僚を「京都奉行」「京都所司代」として都に常駐させ朝廷外交を担わせていましたが、謙信に仕えた神余親綱(メジャーではありませんが)も、上杉氏の京都外交を担う名官僚であり、謙信を外交面で支えた立派な武将官僚であります。
 『神余(かなまり/かなまる)』というとても珍しい氏族は、元来、安房国館山(現:千葉県館山市神余)を出自とした国人衆でありましたが、越後へ移り、謙信の実家である守護代・長尾(上杉)氏へ旗本衆として仕えることになったと言われ、親綱の祖父・昌綱の代から長尾氏の京都外交を担当する京都雑掌・外交官として活躍し、親綱の父・実綱も昌綱と同じく長尾氏の京都外交を担当。恐らく謙信の実父・長尾為景が朝廷より下賜された「紺地日の丸旗」の一連の朝廷工作で活躍したのは実綱であったと思われます。
 親綱は、1526年頃に実綱の長男として誕生したと伝えられていますので、主君・謙信(1530年誕生)より4つ年上になりますが、その親綱も父祖の職務を受け継ぎ、朝廷・公家・足利将軍家など中央政権との外交折衝を行い、謙信が5千の軍勢を率いて初めて上洛した際(1553年)には、謙信の後奈良天皇(第105代天皇)への謁見を実現させることに尽力、実現させています。この時、謙信が後奈良帝より御剣・天盃を下賜された上、「謙信の敵は朝廷の敵とせよ」という大義名分(治罰の詔)も得て、謙信の越後支配権がより強化されました。
 また親綱の活躍は、朝廷幕府などの権力者との折衝のみに留まらず、長尾氏の本拠・越後国の特産で、木綿が普及するまで貴重な繊維質であった「青苧(あおそ、別名:カラムシ)」の専売権を代々有する公家・三条西家との折衝にも活躍し、上杉氏の御用商人であった蔵田氏と共に青苧販売管理を担う奉行職をも担当。青苧販売から得られる莫大な利益は、上杉氏の数多の遠征および京都外交活動の資金源となりました。
 上記のように、上杉の財政面では越後の豪商・蔵田氏が支え、そして親綱をはじめとする神余一族は、謙信直属の旗本衆で、京都に在し、謙信の代理として中央政権・有力商人たちとの折衝を行う外交官であり、上方(畿内)の情勢などを逐一越後へ報告する諜報役といった裏方として活躍したので、先述の柿崎や色部といった現場(合戦場)で活躍した武将とは違い敵勢を相手に戦うということは無かったので、現在でもあまり知られていない武将であります。しかし、親綱や蔵田氏のように陰ながらも京都の諸勢力と折衝し、青苧の販売利益の確保などに従事する官僚、所謂、「縁の下の力持ち」のような存在がいなければ、謙信をはじめとする無敵の上杉軍団は身動きがとれなかったことは事実であります。
 戦国史研究の泰斗である小田和哲夫先生(静岡大学名誉教授)は、歴者番組『英雄たちの選択(NNKBSプレミアム)』の謙信について取り扱った回でご出演された際、親綱の京都での活躍ぶりに先生の私見にて『神余は、越後株式会社 京都出張所長』と評されていましたが、正に至言ではないでしょうか。

神余氏亡き後の上杉氏(米沢藩)の京都外交官・千坂景親

 京都で活躍し、中央政権から越後支配や遠征の大義名分を獲得を成功に導き、青苧の利権の獲得に奔走した親綱に対する謙信の信任は勿論厚く、親綱は1577年9月、親綱と同じく外交官僚として活躍していた上杉氏重臣で越後三条城主であった山吉豊守の急死に伴い、同城主となりますが、翌年3月、謙信が急死。謙信の養子たち、「上杉景虎」と「上杉景勝」との間でおこった上杉氏のお家騒動「御館の乱」が勃発。これにより、北陸・北関東で強大な勢力を誇っていた上杉氏は著しく衰退し、後に戦国の覇者となっていた織田信長の攻勢に窮地に立たされることになるのは周知の通りでありますが、この越後内乱で親綱は景虎方に与し景勝方と戦いますが、景虎方は敗北。1580年、親綱も三条城で家臣の裏切りに遭い、最期を遂げ、神余氏は滅亡します。
 景虎に勝利し、謙信の後継者となった景勝は、信長の大攻勢の前に滅亡寸前まで追い込まれますが、1582年、本能寺の変で信長が横死したことにより、上杉氏は九死に一生を得ることになり、信長の後継者として天下人となった羽柴(豊臣)秀吉に臣従し、豊臣政権下の有力大名として生き残りました。
 豊臣氏も大坂・京都を本拠していた以上、上杉氏は謙信の代から変わらず、親綱のような有能な京都外交官を置く必要性がありました。しかし、長年、上杉氏の京都外交の窓口の重責を担ってきた親綱および神余氏は既に亡かったので、その役を担ったのが『千坂景親』という謙信以来の重臣旗本でした。
 千坂景親という人物も、また世間一般では知られていない武将でありますが、上杉氏の京都外交官(後の伏見留守居役)として活躍。1586年、主君・景勝が宰相・直江兼続を伴って上洛し、秀吉に謁見した際、景親は、兼続と共に茶聖・千利休の手前の茶を頂戴しています。
 景親は、豊臣傘下の諸大名との折衝でも活動し、特に当時、最有力大名であった徳川家康の参謀・本多正信と深く交流していたと言われており、1600年で関ヶ原合戦で西軍に加担し、家康率いる東軍に敵対、敗北した上杉氏の存続に外交調停役として尽力したのが景親でした。因みに、創作の世界では直江兼続が徳川との調停役に奔走した設定になっている場合がありますが、兼続は寧ろ徳川敵対姿勢を最後まで崩さなかった急先鋒であり、兼続が徳川との和睦を望んでいなかったのであります。
 関ヶ原合戦後、天下をほぼ手中に収めた徳川氏は1603年、江戸に幕府を開き、政治の中心は関東江戸に遷り始めました。上杉氏(米沢藩)は桜田門外に屋敷を与えられ、かつて京都外交として活躍し、諸大名および徳川氏と親交が深く、人脈が広い景親は米沢藩初代江戸家老として幕府や諸大名の窓口として活躍、米沢藩の存続に尽力します。兼続が持ち前の能吏の才を活かし、米沢藩領内で行った財政改革で米沢藩立て直しを行ったことはよく知られていますが、新しく中央政府となった江戸幕府と折衝役として上杉氏を外交面から支えたのが景親でありました。
 景親は1606年、71歳で他界しますが、彼の子孫は代々米沢藩の重臣として存続してゆくことになります。景親の子孫として有名なのが、講談「忠臣蔵(赤穂事件)」で上杉氏(米沢藩)の家老として登場する「千坂兵部(諱:高房、景親の玄孫)」や、幕末は米沢藩の統率者、明治期に大久保利通の懐刀として政界で活躍した内務大丞(のちに石川県令なども歴任)・「千坂高雅」がいます。

 

 高雅の上司であった内務卿・大久保利通が1878年5月14日、東京紀尾井坂にて不平士族の襲撃を受け横死した際に、事件発生以前から内務省は警視庁の長・川路利良(旧・薩摩藩士)に「内務卿の護衛を増やせ」と命じていたにも関わらず、それを川路は黙殺し、結果、大久保は暗殺。高雅は川路に対し激怒し、「川路が大久保卿を殺したようなものである」と川路を罵倒したと言われています。以上は余談でありました。