石見銀山という世界有数の銀鉱山

 現在でも、世界各国で「金(元素記号:Au)」や「銅(Cu)」と並んで、貴金属として通貨や工芸品など多岐にわたって重宝されている『銀(Ag)』ですが、これは日本の戦国期でも不変であり、金銀を産出される「金山」「銀山」といった鉱山の存在は、戦国大名の経済力を大きく左右するものでした。
 筆者が尊敬する歴史家・磯田道史先生が司会を務めておられる歴史番組『英雄たちの選択(NHKBSプレミアム)』の越後の戦国大名・上杉謙信を取り扱った回で、磯田先生は『戦国大名の中で、当時の主な財源であった田んぼ税(段銭)や建物税(棟別銭)以外の財源を持っている大名は強いですよ。港の税収、特産品の専売権、そして金山や銀山など』と仰っておられましたが、確かに地方に存在する金銀山を領内に保持していた各地の勢力は、金や銀を財源として強豪となっています。この好例的存在が、金山を有した大名では東日本を中心に、甲信越の武田氏や上杉氏を双璧として、東北の伊達氏・北関東の佐竹氏・東海の今川氏といった有名大名がおり、西日本では銀山の領有権を巡って、中国地方の尼子氏、大内氏、そして大内滅亡後は毛利氏が苛烈な争いを行っていました。
 大内・尼子・毛利という強豪が欲した銀山、それが当時世界有数(日本有数ではない)の銀産出量を誇った『石見銀山』でした。今回は、毛利などの戦国大名たちが渇望した世界有数の『石見銀山』の存在について紹介させて頂きたいと思います。

 

銀の大国・ジパング

紀元前3000年の古代で、銀が商業上の決済(銀貨)や工芸素材など人間の生活上で使われており、特に古代エジプト・古代インドでは銀が金より珍重されていたと伝えられており、古代ギリシア期(紀元前7000年〜同3200年)でもアテネが領内に豊富な銀山を有し、その経済力を背景にアテネがギリシア国内の有力都市(通称:ポリス)になり、そのギリシアで鋳造された銀貨・テトラドラクマは古代ローマ帝国期(紀元前27年に建国)に帝国が鋳造したデナリウス銀貨と共に中東から地中海など、所謂西ユーラシア大陸で広く流通していました。しかし、15世紀になると西洋諸国など西ユーラシアでは深刻な金銀不足となっており、超高価な資源となtっていました。その金銀のデフレ状態を打開するべく、当時、世界有数の海洋国家であったイスパニア(現:スペイン)・ポルトガルを中心となって、西洋諸国は豊かな鉱山(新大陸)を求めて、万里の波頭を蹴る長い航海へ旅立ちます。
 これが、マゼラン・バスコ=ダ=ガマ、そしてコロンブスといった偉人が活躍した有名な「大航海時代」となり、その過程で1545年、イスパニア人が南米のボリビア国へ侵略した際、同国内南部で莫大な金銀の鉱脈を発見し、鉱山町がイスパニア人によって開かれます。これが石見銀山と共に中世期の世界各地に流通した「新大陸銀」を産出する世界最大の「ポトシ銀山」(1987年、世界遺産に登録)であります。
 南米の現地人やアフリカ人がイスパニアによってポトシ鉱山町に強制的移住させられ、金銀山で強制労働(ミタ制度)に従事。多くの労働者が過酷な労働環境によって犠牲になったのでポトシ銀山は別名:人食う山とも言われていました。余談ですが、当時のイスパニア人は他の西洋国家に比べ、特に侵略や植民地支配制度には暴力的かつ過酷であったことは有名でありますが、上記のポトシ銀山の運営もその一例となっています。その多くの犠牲が払われたお蔭によって、16世紀末期〜17世紀初期の世界で流通していたポトシ産の銀重量は世界第一位で、ゆうに250トンを超えたと言われています。

 

 南米のポトシ銀山が開坑された1545年の日本は正に戦国期の真っ只中であり、有名な浅井三姉妹の父である浅井長政、司馬遼太郎先生の小説「功名が辻」の主人公である山内一豊といった武将が誕生した年でもありますが、この頃の日本各地で大小規模問わず金銀山が運営されていた時期であり、特に西日本の石見国(現:島根県西部)にあった石見銀山から産出される銀は膨大な量であり、正に当時の山陰地方はシルバーラッシュ期であり、世界各国(特に西洋)で熱く注目されていました。

 

 2007年に世界遺産に登録され、世間から更に注目されるようになった石見銀山ですが、その歴史は古く、開坑されたのは鎌倉期の1309年であります。本格的に銀が採掘されるようになったのは16世紀初期の1526年。九州博多の有力商人・神屋寿貞(「宗湛日記」で有名な神屋宗湛の曽祖父)と銅山主・三嶋清右衛門によって鉱山開発が始められたことにより、石見銀山は戦国史の表舞台に登場します。更に1533年には、寿貞が博多を通じて招聘した吹工師・宗丹と慶寿によって、朝鮮半島で開発された鉱業(精錬)最新技術『灰吹法』が導入されたことによって、石見銀山の銀産出量は飛躍的に増加することになります。因みに、この朝鮮渡来の灰吹法は、石見銀山以外の日本各地の金銀山でも導入され、石見銀山に次いで国内有数の銀山で、のちに羽柴秀吉が織田信長の命令によって毛利攻め(中国経略)に当たっていた折に、羽柴軍の大きな財源となった但馬国(現:兵庫県北部)の生野銀山や、武田氏の甲斐金山、上杉氏の越後金山などの金銀産出量増加に貢献しています。
 重複しますが、灰吹法の導入によって石見銀山の銀産出量は増加し、16世紀末期〜17世紀初期では最盛期を迎え、世界に流通していた石見銀は『約4万トン』であったと言われています。これは先述の南米ポトシの銀量250トンに次いで、世界2位の輸出量であり、16世紀の世界の銀相場はポトシ銀と石見銀が動かしていたのであります。この様な活況を見抜いていたのが、大内や尼子、毛利といった山陰山陽の勢力は勿論こと、来日した外国人も早くに日本の豊富な銀産出量に着目し、宣教師・フランシスコ=ザビエルは手紙の中で、『日本のほかに銀を産出する国を知らない』と書いてます。
 ザビエルという人物は日本に初めてキリスト教を伝えた人物として、我々は歴史の授業などで知るのですが、彼は日本のに豊富な銀生産量以外にも、当時、日本最大の工業貿易都市であった泉州・堺の重要性も見抜き、それらを布教支援をしてくれている西洋の教会やブルジョア(商人)階級に手紙で教えています。つまりザビエルや彼の後輩に当たるルイス・フロイスなどの宣教師は、宗教家、西洋(ポルトガルなど)からの特派員側面も持っていたのであります。またザビエルやフロイスたちのお蔭によって西洋に報告された遺産は、多くの歴史家・小説家などの諸先生方、そして凡才である自分が(一筆者)が戦国モノについて研究・執筆するに当たって当時の日本国内の庶民の生活風俗や経済状況を教えてくれる貴重な資料となってくれています。

 

 ザビエル以外の宣教師たちから日本一の銀山である石見銀山の存在を報告を受けていた西洋諸国は日本地図を作成するのですが、1570年に作成された世界地図・オルテリウス/タルタリア(韃靼)図には、雑に描かれている日本列島には『銀鉱山(minas de plata)』と記されていますし、下って1595年にオランダで発行された「オルテリウス世界地図帖・増補版」には、ポルトガル人・テイセラが作成したテイセラ日本図が掲載されており、その中でも石見(島根県)付近に『Hivami(石見)』といつ地名と、やはり『銀鉱山(Argenti fodiae)』という文字も記載されています。
 13世紀に活躍した商人兼外交官であり、「東方見聞録」の著者であるマルコポーロは、同書内で日本のことを『黄金の国ジパング』と紹介したことはあまりにも有名であり、この文が西洋人に大きな感銘を与え、黄金の国を求める旅、「大航海時代(15世紀〜16世紀)」の原動力の1つになったことが一説になっていますが、寧ろザビエルが言った通り、16世紀の戦国期日本は銀の国であり、世界有数の石見銀山を抱える『銀の国ジパング』でした。またこれが、当時銀が慢性的に不足していた西洋諸国には有難い状況であり、ポルトガルやイスパニアから来日する所謂、南蛮商人たちは争って日本の銀・石見銀を入手しようと躍起になりました。何故、南蛮商人たちは、何年も費やし万里の波頭を越えて来日し、石見銀を欲したのか?勿論、商人である以上、利益第一であることは勿論なのですが、その詳細は次回の記事にでも紹介させて頂きたいと思います。