越後の名将・上杉謙信の外交政策

越後国(現:新潟県)の上杉謙信(旧名:長尾景虎)は、戦国史を彩った英雄の1人であることは間違いなく、謙信のライバルとされている武田信玄と並んで戦国最強武将と謳われ、東海・畿内という中央を制した天下の覇者・織田信長でさえも謙信・信玄の両英雄に畏怖していたと言われております。
 謙信が信長をはじめとする他の戦国大名に畏怖(および畏敬)された最も有名な理由で挙げられるのが、「軍神(毘沙門天の化身)」と称されるほど合戦では殆ど無敗の強さを発揮する謙信の天才的軍事能力、謙信が有していた越後軍団が天下一の猛者揃いであったことであります。しかし、軍事的能力のみで謙信は天下にその勇名を轟かせたわけではなく、『優れた外交力』、それを下支えする『経済力』を持っていたからであります。
 外交面での優れた活躍をした戦国大名と言えば、信玄や信長・毛利元就・北条氏康などを思い浮かべやすく、合戦で無類の強さを誇っていた謙信は軍事一辺倒で外交面は得手ではなく、消極的であったイメージがありがちですが、謙信も戦乱の世を生き抜くリーダーとして、信玄たちと同じく積極的に外交政策を展開しています。また謙信独自の外交政策というべき点は、未だ群雄割拠の戦国期の真最中(1550年〜1560年代)で、有力者ながらも一地方権力者に過ぎない謙信(当時は景虎)が、他の大名たちよりも『京都外交』を積極的に行っていることであります。つまり当時の中央政権であった「朝廷」・「室町幕府」に頻繁に朝貢し、越後国を統べる戦国大名としての大義名分を中央政権から下賜され、それによって越後国内の家臣団や有力国人衆を統治する権威を公式に確立しています。
 戦国大名とは、中央政権と殆ど無縁で「私的に有する権力(軍事力や経済力)」で己の領国や家臣団を統治することを主としていますので、謙信のように朝廷・幕府に働きかけて、統治者としての権威を公認してもらい、己の領国と家臣を治めるという方策は珍しいものでした。もっとも、同期で守護代から戦国大名に成り上がった他勢力である越前国(現:福井県北部)の「朝倉氏」、出雲国(現:島根県東部)の「尼子氏」も謙信と同じように、自分の支配権力を強固にするために中央政権に働きかけを行っていますが、その中でも謙信の中央政権に対する外交政策は群を抜いており、その証左として、朝倉や尼子が一度も上洛を果たしていないのに対し、謙信は都を遠く離れた北国の越後からわざわざ軍勢を率いて2度も上洛を敢行していています。

 

 筆者は謙信ファンながらも以前の記事では謙信公を酷評してしまったので、今記事では意外と周知されていない謙信が有していた「優れた外交力」について紹介させて頂きたいと思っています。

父・長尾為景の対中央外交政策を受け継いだ謙信

 謙信の出自は、越後国のサブリーダー格の「守護代」の長尾氏であり、越後全土の武士団(国人衆)を束ねる守護大名・上杉氏の補佐役(有力家臣)に過ぎませんでした。戦国期なり守護・上杉氏(当主:定実)の権威は失墜し、守護代・長尾為景(謙信の実父)が下克上によって、主家筋である上杉氏を上回る勢力(軍事力・経済力)を付けて越後武士団のリーダー格になりました。
 為景という人物は、上杉氏の家臣から成り上がった自分に反抗的勢力(上杉氏一門の上条氏など)、越中国(現:富山県)や加賀国(現:石川県)の敵対勢力と干戈を交えるほど、殆どの生涯を戦場で過ごした猛将であり、主家を傀儡化するような戦国下克上の典型的であった反面、朝廷および室町幕府の権威は非常に尊重し、中央政権には外交工作や献金を行った結果、信濃守護職や国持ち大名や幕府の要職衆のみに使用を許される「白傘袋」・「毛氈鞍覆(もうせんくらおい)」・「塗輿」などの使用を幕府から認められ、長尾氏の家格を上げることに成功し、この幕府公認の権威(越後リーダー)を大義名分として越後国内の武士団を臣従させてゆきました。また朝廷からは「日の丸旗」を下賜されているのですが、これは周知の白地日の丸でなく、「紺地日の丸」であり、合戦時では長尾氏の本陣に掲げられるようになります。信玄や謙信関連の歴史ドラマなどで、謙信の本陣で「刀八毘沙門天」「懸り乱れ龍」などの軍旗と共に、「紺地日の丸」の大旗を見掛けることがありますが、この日の丸旗は父・為景が朝廷工作を行った結果、拝領したものであります。
 以上のように、為景は熱心に中央政権へ工作することによって、幕府から「国持ち大名としての資格」、朝廷からは「紺地日の丸」を獲得し、本来、越後国内のナンバー2の実力者であったといえ、守護・上杉氏の家臣の家柄に過ぎなかった長尾氏の家格を、上杉氏とは違う越後武士団を統率するリーダー、つまり戦国大名として上昇させていくことに為景は腐心していったのですが、この為景が展開していた中央政権に対する外交路線を受け継いでいったのが、謙信(長尾景虎)であります。
 為景が没した後、謙信の兄である晴景が長尾氏を相続しますが、病弱であり為景ほどの武略の才を持っていなかった晴景は、越後武士団の信頼を得ることが出来ず、為景時代以上に越後国内各地で有力国人衆の離反が相次ぐ状態となりました。その反乱勢力討伐で大活躍したのが晴景の弟であった景虎、青年期の謙信でした。この謙信の優れた武勇ぶりに長尾氏に属する家臣団や国人衆の多くは、晴景に代わり謙信を長尾氏当主にすることを望み、晴景に隠居を迫りますが、当初晴景はこれを拒絶。今度は越後国内が晴景派と謙信派が対立するようになっていきました。
 越後の最実力者である長尾氏の内紛によって越後国内が再び乱れることを危惧した越後守護・上杉定実は、仲介役を買って出て晴景と謙信との間を取り持ち、嫡子のいない晴景に謙信が養子に入り、晴景は隠居し、謙信が長尾氏当主を相続するという結果になりました。この時は既に上杉氏の勢力は完全に有名無実化していましたが、上杉氏という名目上の旗頭としての効力は未だ健在であったようで、晴景と謙信の和平協定を成立させるほどの結果を出しています。兎も角も定実の仲介の労によって謙信は長尾氏の当主となり、実質上の越後武士団のリーダーとなり、戦国乱世の表舞台に登場したのであります。これが1548年、謙信若干19歳の時でした。
 謙信が長尾氏を相続した2年後の1550年に、守護の定実が病死。定実に跡継ぎがいなかったので守護・上杉氏はここに断絶するとになります。謙信からしてみれば、守護代である自分が、主家筋である上杉氏を名目上のみの旗頭として奉戴し、その大義名分によって越後武士団や国内を統治してゆくつもりが、その大切な旗頭が謙信が長尾氏を相続して僅か2年後に消滅してしまったのであります。
 その越後統治の危機に瀕した謙信が採った対策が、父・為景も行っていた中央政権への外交工作でした。謙信も室町幕府へ献金や貢物の下工作を綿密に行い、時の室町幕府13代将軍・足利義輝から強い信頼を置かれていました。義輝は、謙信に対しても(為景と同じように)、国主クラスのみに使用を許可されていた「白傘袋」・「毛氈鞍覆」・「塗輿」などを許し、謙信に対して幕府公認の越後国主職を与えることにより、謙信が名実共に越後武士団のリーダーにすることに便宜を図っています。
 越後を統治する立場である謙信からしてみれば将軍・義輝のお陰で、名実共に越後の支配者になれたのですから、義輝を救いの神様と思ったに違いなく、また義輝からしてみても、武力も財力も無く名目上のみの権力者(将軍)にまで落ちぶれた自分を敬い、熱心に献金や贈り物を行ってくれる謙信は、弱体化した幕府の大事なスポンサー的存在でした。謙信と義輝は非常に緊密な関係であったということは有名でありますが、上記のように両者間の利害関係は見事に一致していたことが根底にありました。

 

 戦国期というのは、応仁の大乱後、幕府や朝廷の権威は混乱期以前に比べると遥かに衰退し、それに伴い幕府任命の守護大名の威勢も衰え、各地で統治システムが支離滅裂になる混沌とした時期でしたが、それでも中央の権威が完全に死滅した訳ではなく、その権威を条件なしで崇拝する心情というものが当時の人々ありました。
 戦乱の渦中であった畿内の勢力者(好例が三好長慶、松永久秀)たちは、朝廷や幕府の衰退ぶりと権威の弱さを知っているので、それらに対する畏敬の念が少なかったのですが、中央を遠く離れた東国や北陸、つまり越後国では守護大名の失墜ぶりは直に見ていますが、中央の幕府や朝廷の弱体化は見ていないので、中央政権に対する畏敬の念というのが濃厚に残っていました。その越後の人々(武士団)の権威に対する心情を汲み取った上で、為景および謙信(両人自体も中央政権の尊崇者でしたが)は、朝廷や幕府に熱心に外交工作を行い、越後を統治する戦国大名としての大義名分を獲得してゆくことに熱心であったのであります。 
 静岡大学名誉教授であり日本戦国史の泰斗でいらっしゃる小和田哲男先生は、『謙信は、中央政権の権威をあからさまに前面に打ち出した唯一の大名で言って過言ではなく、同時期の駿河今川氏の領国統治方針は「我は自力で領国を治めているのだから、朝廷や将軍の権威は不要である」(独立独歩)というものであり、そういう意味でも将軍の権威(大義名分)を利用して領国を統治しようとした謙信は稀有の存在であったと思います』と、NHK歴史番組・『英雄たちの選択』にゲスト出演された際に仰っておられました。

 

 しかし為景や謙信が越後を統治するために中央政権から得た戦国大名としての大義名分を得たにも関わらず、完全に越後武士団を統御できた訳でなく、為景は上杉氏を尊重する国内の上杉氏一門衆および有力国人衆、更に同族である上田長尾氏(米沢藩初代藩主・上杉景勝の実家)の反抗に悩まされ、為景の後を継いだ謙信も国人衆の反発、有力家臣の造反に生涯苦しめられるのですから、合戦で天下一の強さを誇った越後武士団たちの誇りの強さと不羈の心は相当なものであったに違いありません。

 

 現在の諸外国との外交政策でも、何よりも「先立つもの」「優れた外交官」が必要になってくることは皆様よくご存知ですが、謙信が熱心に行ってきた中央政権に対する外交政策にも莫大な費用と財力が費やされていました。謙信は「先立つもの」をどのように確保し、それを元手にして謙信の代理として朝廷や幕府と交渉していた「優れた外交官」は誰であったのか?次回の記事では、「その2点のキーワード」として、上杉謙信の外交力の第2弾ような位置づけで紹介させて頂きたいと思います。