元々武田氏相続権が無かった勝頼

 戦国最強軍団の甲州武田軍を率いながらも、1575年三河長篠設楽原の戦い(現:愛知県新城市)で、織田信長・徳川家康連合軍に完敗した武田勝頼。その勝頼の主な敗因として、「織田氏と武田氏の『経済力の格差』にあった」ということを前回の記事で紹介させて頂きましたが、今記事では他の敗因、『大将として勝頼が背負ったハンディ』について紹介させて頂きたいと思います。
 長篠設楽原での名将・武田信玄以来の無敵武田軍が惨めにも敗退してしまった主原因として有名なのが、先代である信玄があまりにも名将であり過ぎたため、その跡を継いだ若き勝頼が功を焦り、信玄以来の宿老である馬場や山県の諌止も聞かず、無理に織田徳川連合軍と開戦に踏み切ったという大将としての勝頼の器量の無さや愚行ぶりが通説となっています。
 実際、宿老たちの制止を振り切って強敵の信長と戦ったのですから大将・勝頼の大失態であったことは否めませんが、決して勝頼は凡将ではなく、長篠の前年に当たる1574年には、父・信玄でさえも攻略できなかった遠江の高天神城(静岡県掛川市)を攻略するなどの力量を発揮し、武田氏の活躍ぶりを描いた軍記「甲陽軍鑑」では、勝頼のことを『強すぎる大将』と、寧ろ戦に強かったことを強調しているほどであります。
 甲斐武田氏の研究では第一人者であられる歴史学者の平山優先生(大河ドラマ「真田丸」の時代考証をご担当)によると、長篠で大敗した勝頼は長篠で討死した家臣団や兵力が抽出される農村の年貢免除措置などを採り、武田軍の再編成を開始し、長篠から僅か2ヶ月後には「1万3千〜2万」の軍団を取り揃え、仇敵の徳川氏からは「勝頼恐るべし」と畏怖された記録があることを仰っておられると同時に、『どうも勝頼には後世に付けられたイメージ(愚将ぶり)の方が強くて、同時代の人たちのイメージ(名将)とは違う』ということもご指摘されておられます。
 上記のように、勝頼は戦に強い上、長篠の敗戦後には様々な措置を採り、軍団を再編成している手腕ぶりを鑑みる限り、勝頼は愚将ではなかったことがわかります。しかし、父・信玄より寧ろ強い大将であったかもしれないその勝頼が、何故信玄が育てた家臣や軍団を長篠設楽原という大勝負で上手く統御できなかったのか?その1つに『勝頼の出自に問題』があったと思われます。

 

 父・信玄(当時は晴信)が滅ぼした信濃国(現:長野県)の名族・諏訪頼重の娘(諏訪御料人・乾福院殿)が側室とし、その信玄と諏訪御料人と間に誕生したのが勝頼(四郎)であります。生まれながらにして「武田氏に滅ぼされた諏訪氏の血を引いている」事自体が武田氏で生きる勝頼にとっては肩身が狭いものがあったに違いなく、更にその勝頼が信玄亡き後の武田氏当主となってしまうのですから、これでは悲劇を通り越して喜劇的要素が多々あります。
 元々武田氏内部では敵対していた諏訪氏の娘を信玄の側室として迎え入れることについて強く反対していたことあった経緯もあり、諏訪氏の血を引く勝頼を当主と戴く他の武田氏一門衆や譜代家臣は、心の奥底で諏訪の血を引く当主・勝頼に対して敵愾心や侮蔑感に似たようなものを持っていたかもしれません。勝頼は、偉大な父・信玄の後継者という重圧感に加え、一門衆や譜代家臣の心底にも苦しめられたのであります。勝頼は、父・信玄の所業が原因で、生来「血筋の不幸」というものを背負っていたということは見逃せません。
 勝頼誕生時にはすでに信玄には正室・三条の方との間に、次期武田氏当主である嫡男・太郎義信がおり、勝頼は側室の子である上、信玄の四男であったので、本来、名門戦国大名である甲斐武田氏の相続権はありませんでした。信玄も当初は勝頼に武田氏を継がせる意思は無く、信玄が滅ぼした信濃の名族・諏訪氏の名跡を継がせ、姓名も武田勝頼ではなく、『諏訪四郎勝頼』でした。ご覧のように、勝頼の名には武田氏一族に使われている「信」という一字(通字)がなく、諏訪氏に使われている『頼』という一字が使われており、この点をとって見ても勝頼には武田本家を継ぐ資格が与えられていなかったことがわかります。
 信玄は、既に武田領国となっていましたが、かつて諏訪氏が統治していた伊那谷(高遠や諏訪)をより円滑に統治させるために、諏訪氏の血を引く勝頼に諏訪氏の名跡を継がせたのであります。因みに勝頼以外の兄弟(嫡男・義信は除く)や姉妹も、信濃国の名族に養子や婚姻政策(懐柔策)によって送り込まれています。次男・信親(竜芳とも。母:正室・三条夫人)には東信の名族である海野氏、五男・盛信(母:側室・油川夫人)には仁科氏、三女・真理姫には木曽谷の名族・木曽義昌の正室、といったように、信玄は武田本家を継がせる義信以外の子女たちを、(懐柔策として)諏訪をはじめとする木曽・海野・仁科など信濃の名族に送り込んでいるのであります。
 上記の信玄の懐柔策は、自分の血を分けた肉親たちを信濃の有力勢力たちに送り込むことによって、各勢力を甲斐武田氏に取り込むことによって信濃経営を盤石にすることが第一目的であったことは間違いないのですが、別の目的として、嫡男以外の男子を多く武田氏内部に抱え込んでいると、次に武田氏を継承する義信の代になって、他の兄弟たちと家督争いが発生する確率があるので、部屋住み身分である信親や勝頼は他家へ送り出し、義信のみを次期後継者として武田本家へ残すというものがありました。
 この嫡男以外の男子は他家へ養子として出すという方策は、何も信玄のみ行っていたものではなく、多くの戦国大名の勢力拡大に用いられてきた常套手段でありました。信玄以外には安芸国(現:広島県西部)の毛利元就が、嫡男・隆元には毛利本家を相続せしめ、次男・元春、三男・隆景には同国の有力勢力であった吉川・小早川に養子として送り込んだ「毛利両川体制」を築いたのは有名でありますし、織田信長も嫡男・信忠は織田氏に残し、次男・信雄には伊勢国(現:三重県)の北畠氏、三男・信孝には同国の神戸氏の養子へと送っています。
 元就や信長と同じく、信玄も有力勢力に子女を送り込んで自勢力を蓄えてきたのでありますが、(悪い譬えでありますが)、勝頼も父・信玄の政略の手駒の1つとして利用され諏訪氏を相続し、武田氏一門衆として将来の武田氏本家(次期当主・義信)を扶けてゆく立場(家臣)で終わるはずでした。しかし、勝頼、ひいては武田氏の将来を一転させる大事件が武田氏に勃発します。それが嫡男・義信と父・信玄の政略方針の対立が発端となった「義信事件(1564年)」であります。

 

 義信事件の詳細については割愛させて頂きますが、第4回川中島の戦い(1561年)後、武田氏の戦略方針(駿河侵攻)を巡って信玄と義信は対立。義信派に属していた飯富虎昌(兵部とも、義信の後見人)や長坂昌国、穴山信嘉といった武田氏譜代家臣の一部が信玄に対して謀反を企てている事が発覚。飯富たちは処断され、謀反に関わっていた疑いを持たれた義信は甲斐東光寺に幽閉され、廃嫡(相続権剥奪)されました(1565年)。義信は廃嫡された2年後の1567年、幽閉先の東光寺で失意の内に死亡し、死因としては自殺説と病死説などがありますが、いずれにしても義信が30歳の若さで世を去り、信玄および武田氏は大事な後継者を失ったことだけは事実であります。東京大学史料編纂所・教授の本郷和人先生は、信玄が義信を対立し、義信を結果的に死に追いやってまで駿河侵攻に拘ったことについて、自著『真説 戦国武将の素顔(宝島社新書)』の中で以下の通り述べられております。

 

 『義信を失ってしまったときのことを考えて、信玄が判断したのかというと疑問符がついてしまう。跡取りとして大事に育ててきた義信を犠牲にしてまで、駿河に侵攻するべきだったのかと。義信を失って後継にした勝頼が、そのあと滅ぼされてしまったから言うわけではないですが、信玄の選択は本当に正しかったのかと思うところはあるのです。』(「信玄の信濃侵攻は正しかったのか?」内より)

 

 名門戦国大名・武田氏の跡取りであった義信が死んだ時に、将来武田氏を相続できる最有力候補は、既に諏訪氏の名跡を継ぎ、武田領伊那谷の領主となっていた四男の勝頼しかいませんでした。次男・信親(竜芳)は幼少の頃に病気により失明し、当主の責務を果たせる身体でなく、三男・信之(母:正室・三条夫人)は既に他界しています。余談ですが、信玄と正室・三条夫人との間に生まれた男子たちは何れも薄幸な人生を送っており、これが武田氏滅亡という悲運にも影響を及ぼしているような気がします。

父・信玄の明らかな失策

 1571年2月、それまで武田一門衆の諏訪氏の当主として信濃伊那谷を統治していた勝頼は、信玄から次期武田氏当主として甲斐国に迎え入れられました。しかし、この信玄の後継者再選定措置は明らかに手遅れであります。何故ならこの2年後には、父・信玄が病没してしまうからであります。またこの2年間という年月では、信玄も勝頼に帝王学などを仕込んだり、勝頼と自分が従えてきた重臣たちの主従関係を強固にするといった、次代の勝頼のために武田氏内部を整える重要な組織創りを行う暇もなく、強敵・織田信長や徳川家康との戦い(西上作戦)で忙殺され、その最中に信玄は死んでしまいます。
 信玄は馬場・香坂(高坂)・内藤・山県といった武田四天王をはじめとする名将揃いの武田家臣団を生涯を賭して作り上げたほどの戦国随一の英雄でありながら、「嫡子・義信を失ってしまったこと」や、「勝頼のための組織造りまで手を付けていなかった」ことは、信玄の千慮の一失であったと思うのですが、また同時に動乱真っ只中の戦国期である上、53年という信玄の短い生涯では未来の武田氏政策や組織づくりを行うというのは不可能であったに違いないとも筆者は思います。寧ろ経済性発展が乏しい甲斐一国から勇躍し、信濃・西上野・駿河などの諸国を支配下に治め、天下無敵と称されるほどの武田軍団を創り上げた信玄の偉大さに筆者は尊敬しております。
 因みに、同時代の信玄以外の英雄と称される戦国大名も後継者政策には失敗している場合が幾つかあります。信玄の宿敵である上杉謙信は自分の後継者選びについては、信玄よりも酷く、全く無策といってよく、正式の後継者を選定せずに急死してしまい、2人の養子(景勝と景虎)が上杉氏の相続権を巡って大きな内乱(御館の乱)が発生してしまい、有力戦国大名・上杉氏の衰退の原因となってしまい、織田信長の場合は、嫡子を信忠と定め、しっかりと織田氏の後継者として鍛えていましたが、本能寺の変で信長と共に横死してしまい、天下の覇王・織田氏は没落。その座は家臣であった羽柴秀吉に乗っ取られてしまう結果となっています。以上のように、信玄・謙信・信長といった戦国の三大英雄でも後継者政策では結果的に失敗し、家運を傾けさせてしまっていることを鑑みても後継者政策の難しさがわかります。

 

 信玄が勝頼を中途採用のような形で武田氏の相続者としたことについては、代々武田氏に仕え、信玄の下、勢力拡大に多大な功績を挙げてきた譜代家臣団(甲州軍団)にとっては心底から喜んで受け入れられるものではありませんでした。
 先述のように、生来「血筋の不幸」を背負い、武田氏から締め出されるように養子に出された勝頼は約10年間、武田領伊那谷の郡代(現代でいうところの支社長、つまり1人の武田氏家臣)としての経歴があり、既に父・信玄が従える本社直属の精鋭家臣団とは別個の『独自(支社)の家臣団(諏訪衆)』を形成しており、勝頼が武田氏嫡子(甲斐国)として迎え入れられた時点で、それまで支社の社員的存在であった勝頼家臣団も本社である武田氏家臣団として中途参入することになったのであります。
 そして、信玄が死に勝頼が武田氏当主になった際には、それまで長年信玄に仕え、甲斐武田氏の舵取りを担って来た重役的の甲斐衆家臣団の立場は、『新当主・勝頼が引き連れてきた諏訪衆家臣団という新参者たちに取って代わられる』、という危惧が譜代家臣団の心中にあり、名将・信玄と共に命懸けで他国を切り取り、天下無敵として謳われる甲斐武田氏を築き上げてきたという自負心と誇りがある甲斐出身の譜代家臣団たちにとって、よそ者(信濃出身)である上、かつて自分たちが滅ぼしたはずの諏訪衆家臣団が武田氏を切り盛りしてゆくことは到底承服できるものではなかったに違いありません。
 武田氏にとって勝頼が相続者(次期当主)になるということは、勝頼個人の出自も問題になっていますが、更に厄介なのは「信玄以来の譜代家臣(甲斐衆)」と「勝頼が連れて来た新参家臣(諏訪衆)」との内訌問題も既に孕んでいたということであります。

 

 信玄は1573年、強敵・織田信長や徳川家康との戦い(西上作戦)途上で病気により死を迎えてしまいます。その折、信玄は将来(自分の死後)「上記のような家臣団の内部分裂」が起こらないように対策を講じ、遺言を残しているのですが、この事がかえって次期当主となる勝頼の立場を一層微妙なものしたものにした決定的なものとなってしまいました。

 

 即ち「自分の死は3年間秘して、その間、勝頼は『陣代(一時的後継者)』となり、武田氏をまとめよ。3年後、勝頼の長子・信勝(信玄の孫)が元服させ(適齢期になるので)、その信勝を武田氏の正式な当主とせよ」

 

というものであります。勝頼は信玄によって武田氏相続者として迎え入れられたにも関わらず、最終的には正式な当主とは認められず、『仮初の当主』という限定的かつ不安定な地位を公認されてしまってのであります。父であり偉大な武田氏創業者である信玄からそのように遺言されてしまっては、将来武田氏を率いてゆく勝頼の立つ瀬が無いものになってしまってますが、武田氏研究で有名な先出の平山優先生は、『信玄は勝頼を「陣代」という一時的当主に限定することによって、勝頼の家臣団である諏訪衆に権力が一極に集中することを防ぎ、甲斐衆と諏訪衆の内部分裂を避けようとした』という意味合いを述べられておられていますが、筆者からしてみれば、これは信玄が最期の最期に犯してしまった失策と思ってしまいます。
 当時(1573年/信玄病死)は、畿内(中央)では信長の伸張著しく、東国の武田氏も危急存亡の秋を迎えつつある時期であるのに、その武田氏には正式な後継者(嫡男)もいない状態であり、唯一当主になれる器量と資格を有している勝頼に対して「お前は仮の当主だ」と家臣たちの前で言ってしまっては、これから勝頼に従ってゆかなければならない家臣団は、余計勝頼に対して敬服しなくなってしまいます。平山先生が仰られる通り、家臣団の内部抗争を防ごうという信玄には信玄の考えがあったのでしょうが、それを憂慮するあまり、子の勝頼に対しての配慮が足りなくなってしまった結果になってしまったのであります。実は、この筆者が思うに至った信玄の後継者失策については、しっかりと出典がございます。それは先出の本郷先生の『真説 戦国武将の素顔』であり、以下の如く本郷先生は記述されておられます。

 

 『後継者の勝頼に対し、「これは仮初の後継者だ」と遺言を残したのが本当だとしたら、それでは家来たちがついてくるわけがない。信玄がこのとき、遺言として残さなければいけなかったのは、勝頼を家来が尊敬できるようにすることでしょう。勝頼に少しでも箔をつける気遣いが必要だったのではないかということです。』

 

 『武田の家来にしてみれば、信玄が亡くなる直前まで勝頼も同僚だったわけです。諏訪勝頼は武田の家来として、これから武田家のなかの武将のひとりとして頑張ってゆこう、という状態でした。だから山県昌景にしても、馬場美濃守にしても、ついこの前まで同僚だった勝頼が「あっ、俺今日から大将ね」と言ってくるわけで、面白くはないですよね。だから信玄には自分の息子を箔付けするような配慮が欲しかった。(中略)後継者をしっかり選ぶことが、部将の功績の大小につながるので、その点に限れば信玄はイマイチだったといわれても仕方がないでしょう。』

 

 (以上、「有能な家臣は育てたが後継者を育てられなかった」より)

陣代(仮の当主)として奮闘する勝頼

 信玄の後継者政策の失敗によって、中途半端な権限(陣代)しか公認されず、求心力が弱い状態で信玄がつくりあげた無敵・武田軍団を引き継ぐことになってしまった勝頼は、1575年、三河長篠設楽原の戦いで、信玄が亡くなった2年前よりも遥かに強大となっていた織田徳川連合軍に大敗北を喫し、武田軍団の中枢を担っていた馬場や山県といった信玄以来の名将が討死にしてしまいます。一般的には、この大敗北が武田氏の滅亡の最大原因と言われてきましたが、確かに譜代家臣である馬場や山県を失ってしまったことは武田氏にとっては大きな打撃となったことは事実ですが、却って父・信玄以来の譜代家臣が多く討死にしたことにより、勝頼は譜代家臣団に邪魔されず、自分で選りすぐった人材で形成した新・武田軍団をつくることができました。
 実は、長篠の大敗北後の勝頼(当時30歳)の軍団編成のやり方は、父・信玄も勝頼と同じ年齢時期に行っているのであります。それは未だ日本全が国群雄割拠時代の真っ只中であり、1548年、信玄(当時は晴信、27歳)が信濃経略に着手していた折、東信(現在の坂城町および上田市一帯)に勢力を誇る有力国人勢力・村上義清と戦った「上田原の戦い」で、信玄は父・信虎以来の重臣である板垣信方(駿河守)や甘利虎泰(美備前守)、初鹿野高利といった、それまで武田軍の中核を担っていた武将が討死するほどの大敗北を喫していますが、この後、信玄は自分好みの人材を武田軍の中核に据えて、軍団の再編成を行っています。その人材たちが、無敵・武田軍の主力となる馬場信春(美濃守)・山県昌景・内藤昌秀・香坂虎綱といった智勇兼備の名将たちであります。
 勝頼が長篠の大敗北で武田軍を減退させたのが滅亡の原因というのなら、信玄も若き頃に上田原の戦いで大敗北を喫し、多くの家臣団を死なせているのであります。ただ信玄の時期は、未だ各地に諸侯が入り混じった群雄割拠の時代であり、後の信長のような強大勢力は未だ存在していなかったために、信玄は軍団や国力を整える余裕と時間がありました。しかし、勝頼が長篠に敗北した折には、既に西には東海・畿内に300万石以上の経済力を持つ信長が存在しており、勝頼には前例の信玄ほどの時間的余裕がなかったのが、勝頼の不幸でありました。もし、勝頼に10数年の余裕があれば、後世、信玄が作り上げた武田軍団に匹敵するほどの強力な軍団をつくっていたかもしれません。また勝頼には、事実長篠の敗北直後に、1万を超える軍団を再編成できるほど力量を兼ね備えていたので、(繰り返しますが)、信長という一大敵勢力が存在していなかったら、勝頼をトップとする新武田軍団が後世に存在していた可能性を窺わせます。

 

 長篠の敗北後、勝頼は7年間、戦国大名・武田氏の存続を図り、外征・後北条氏との軍事同盟締結(甲相同盟)、信長との和睦などを試みていますが、結果的にはどれも裏目に出て、武田氏は追い詰められることになります。平山先生は、勝頼が越後上杉氏の謙信亡き後の内乱「御館の乱」(1579年)で、最終的に後北条氏の出身者で謙信の養子の1人であった上杉景虎(元は北条氏秀)を見限り、景虎と敵対していた上杉景勝(謙信の姉の子)に味方したことにより、後北条氏の恨みを買って、背後(東方)を護ってくれる有力な同盟者を失ったことが武田氏滅亡の決定打になった、と仰っていますが、事実これにより武田氏は、北に御館の乱で弱体化した上杉氏と盟友関係になりましたが、反面、西に織田・徳川、東に後北条という強敵に囲まれることなり、武田氏の滅亡は間近に迫っていました。

 

 勝頼は、織田や後北条などの外圧に備えて、1581年、祖父・信虎以来、長らく武田氏の本拠地であった躑躅ヶ崎館(現:甲府市、武田神社)を離れ、甲斐国内の交通の要衝であった韮崎に、新たに築城した平山城の新府城(現:韮崎市)へ本拠を移転させますが、この新府城築城の折、配下家臣団に対して費用負担を強いたことが余計、家臣団や人民の離反を招くことになりました。1582年、妹婿である木曽義昌が織田氏通じて勝頼から離反、これを好機とみた信長は嫡男・信忠を総大将にして武田氏討滅の大軍を催します。続いて信玄の娘婿であり武田氏の有力家臣であった穴山信君(梅雪)が徳川に寝返ります。これまで勝頼には2万近くの兵力があったと言われていますが、武田氏一門衆や配下の国人衆の離反が相次ぎ、一気に数百にしか満たない小勢となってしまったのであります。そして、最期は武田氏の譜代家臣で甲斐国内の有力国人領主であった小山田信茂の突然の裏切りに遭い、勝頼は妻・北条夫人、嫡男・信勝、僅かな家臣たちと共に天目山で自刃。ここに天下に名を馳せた名門戦国大名・武田氏は滅亡したのであります。

 

 勝頼が滅亡の淵に追い詰められた時、一番に彼を扶けてくれるはずの武田氏一門衆であった木曽や穴山、武田信廉(勝頼の叔父)が相次いで、敵方である織田や徳川に投降、あるいは大した戦いをせずに逃亡するなど勝頼を更に追い詰める行為をとっており、極めつけは、甲斐の国人衆である小山田に裏切られ破滅しているという、勝頼の哀しい最期を観ていても、武田氏の根幹を成していた一門衆や甲斐国人衆にとって、他国出身者であり仮初の新当主・勝頼は尊敬されていなかったことがわかります。その反面、勝頼に最期まで付随ったのは、小県郡の有名な真田氏、勝頼の異母弟で信濃の名族・仁科氏の当主となっていた盛信をはじめとする諏訪衆といった信濃出身者であり、勝頼の同郷者たちでありました。

 

 勝頼は血筋の不幸を背負いつつも、運命の徒により敵方であった名門・武田氏を様々な不安材料を抱えながら、継がなくてはならなくなった悲劇の武将の1人であったのであります。そういう勝頼を暖かい眼で見てあげたいと筆者は思っています。