東国の覇者・甲斐武田氏の際どい経済力

 カテゴリ・織田信長の経済戦略内の記事で、信長が長篠設楽原の戦い(1575年)で、戦国期に最強と謳われた甲斐武田氏の軍勢に勝利できた理由を、一般的に知られている「鉄砲戦法」、そして「陣城戦法(拠点防衛方式)」であった、ということを紹介させて頂きましたが、今回はその敗者となった甲斐武田軍の大将・武田勝頼は、父・信玄が遺した天下一の精強軍・武田軍(甲州軍団)を率いらがらも長篠設楽原で大敗北を喫し、その7年後に信長によって滅ぼされる結末になったのか?ということを少し探ってゆきたいと思います。

 

 平安末期から甲斐国(現:山梨県)を本拠としていた甲斐源氏の頭目であり、鎌倉・室町期には甲斐守護職であった名門戦国大名・甲斐武田氏は、戦国一の名将・武田信玄(第19代当主)の代に急成長し、それまで「甲斐一国(石高:約22万石)」であった領国を、最盛期(信玄の晩年期:1572年頃)には「信濃国(現:長野県)」・「西上野国(現:群馬県西部)」・「東美濃国(現:岐阜県東部)」・「駿河国(現:静岡県東部)」、そして「遠江国(現:静岡県西部)」・「三河国(現:愛知県東部)」・「飛騨国(現:岐阜県北東部)」などの一部を含めた領土、『計8ヶ国・総石高:約130万石』を信玄一代で築き上げました。
 信玄の凄さは、山国であり石高(米生産量=経済力)も決して高くない甲斐国からスタートし、治水工事や鉱山開発など内政を行いつつも、最強軍団を手塩に掛けて造り上げて外征を繰り返すことによって、地の不利にも負けず最盛期には8ヶ国を切り従え、甲斐武田氏を東国の覇者まで仕立て上げたことであります。しかし、同時に信玄の最大の不幸は、彼ほどの内政・軍事に通暁している英雄が全生涯を賭して獲得し統治した東国8ヶ国の殆どが、山国であり一国ごとの『石高が低い』ということであったでしょう。8ヶ国で130万石というのは少ない石高(経済力)であります。
 武田氏の本拠地であった甲斐、次に信濃守護大名・小笠原氏や有力国人・信濃村上氏、更に越後国(現:新潟県)で信玄と並んで戦国最強とされる上杉謙信たちと死闘を繰り返して、漸く獲得した信濃、そして西上野。これらは丘陵地帯(平)が各地に点在する農業後進地帯でありました。
 更に、耕地可能面積が少ない山国である上、「海が無い」というのも武田氏にとっては大きな痛手でした。領国に海を持たない武田氏が敵対していた駿河今川氏・小田原北条氏によって「塩留め(経済封鎖)」を受けて窮地に陥った事(故事:「敵に塩を送る」の発端)は、皆様よく知っていらっしゃる有名な話ですが、それに加えて、武田氏は戦国期には重要な物資流通ルートとなっていた『港と海上交通を持っていない』ということでもあります。
 戦国当時、全国に戦国大名や大小の国人領主といった武装集団や寺社の宗教勢力が互いに牽制し合って、各地に割拠している戦国当時の陸路は、道路が狭隘かつ土道や泥道であり多くの物資を運搬するのも大変である上、各地の大名や有力寺社が勝手に多くの関所を設けて通行人から通行料(関銭)を徴収、物流停滞に拍車を掛けており、安全面でも隙あれば野盗(野武士)などが襲来して物資を強奪するというのが当たり前の物騒さでした。
 上記のように、当時の陸上物流ルート(道路事情)というのは、舗装され広々したアスファルト道路を自動車などで楽々と通行している現代人である我々の想像をはるかに超える悪いものであったのですが、その反面、当時から活性化していたのが「海上流通」でした。海上では船で多くの物資を迅速に運搬でき、通行料に関しては水軍(海賊)が支配している海域(特に瀬戸内の村上水軍は有名)では徴収されていた例もありますが、それを払えば、水軍がその海域での航海の安全を保障してくれていたこともあり、海上の物流ルートは、陸と比べると良いものであったと言われています。
 武田氏が支配していた領国は、道路事情が悪い山々に囲まれた国々である上、海を持っていないので良好な海上ルートも無い状態でした。つまり武田氏の領国は極めて『経済的に孤立しやすい状況』であったのです。
 これらの領地に拠って、他勢力と覇権を争っていかなければならなかった英雄・信玄、その後継者・勝頼の武田氏は、ライバルであった上杉謙信や織田信長に比べると遥かに不運でありました。信玄が活躍した当時(1541年〜1572年頃)は、未だ戦国期最高潮の頃であり、各地には武田氏をはじめ織田・上杉・北条・今川・浅井・朝倉・一向一揆衆などの有力諸大名が群雄割拠しており、絶対的強豪という勢力は未だ出現していませんでした。
 この絶対的強豪の地位、即ち天下の覇者になるのは信長なのですが、それは信玄亡き後の話であり、信玄在世時は各地の勢力が拮抗している状態であり、信玄はその情勢を巧みに利用して、畿内の浅井・北陸の朝倉を味方とすることによって、信長を一時的に追い詰めていたこともありました(第一次信長包囲網)。
 信玄の跡を継いだ勝頼こそ悲運であったに違いありません。彼が武田氏の当主時期(1573〜1582)は、既に信長が、武田氏の味方勢力であった足利将軍家を京都から駆逐、次いで浅井・朝倉を討滅して東海・畿内を支配下に置く、名実共に天下の覇者に君臨している頃であり、信玄の頃のように信長を背後から牽制してくれる味方も少なく、武田氏のみで覇者・信長と直に相対していかなければならなかったのですから。
 信玄が一代で築いてくれた武田氏の領国と最強軍団を受け継いだ勝頼ですが、上記のように、武田領の殆どが根本的に石高が低く、長年良き物流ルートである海上交通(港)などを持っていなかったなど含める武田氏の物資(主に鉄砲弾薬)不足といった経済基盤の脆弱さは、勝頼が当主になった頃より顕著になってきます。その代表的事例となってしまったのが、「長篠設楽原の戦い」でした。

 長篠設楽原の戦いでは、軍勢数については諸説ありますが信長と徳川家康連合軍の3万8千(内訳:織田軍が3万、徳川軍が8千)と勝頼を大将とする武田軍1万5千が約9時間に渡って激突し、結果的に武田軍が約1万の将兵を失うほどの大敗北を喫したと、信長の一代記「信長公記」には伝わっています。これが事実だとすると、のっけから武田軍は敵方との兵力差で圧倒的不利な厳しい状況であり、いくら当時最強軍団といわれた武田軍でも敗北必定でした。これを憂いた先代・信玄によって抜擢された武田の宿老(武田四天王で有名)であり歴戦の名将であった馬場信春(信房・鬼美濃)・山県昌景・内藤昌秀(昌豊・修理)たちは、彼我の兵力差の不利を勝頼に説いて撤退を主張したのですが、勝頼は彼らの意見を退けて、織田徳川の大軍と決戦を敢行しています。
 長篠で信長と対峙した折の武田氏(勝頼)の不運として先ず挙げられるのが、『根本的な経済力の不利』であります。先述のように甲信を含む8ヶ国を抑え、「東国の覇者」として君臨していた武田軍ですが、その通算石高は僅か「130万石(最大動員兵力数:約3万2千)」であるのに対し、敵方である信長は、元来穀倉地帯であった尾張国(現:愛知県西部)・美濃国(現:岐阜県南部)を本貫し、数々の敵を討滅して伊勢国(現:三重県)・近江国(現:滋賀県)・越前国(福井県北東部)・山城国(現:京都府南部)といった当時の豊饒かつ物資流通の要所が多くある東海・畿内・北陸に及ぶ広範囲の領土を手中に治めており、その経済力は『300万石(最大動員兵力数:約7万5千)』を優に超えている『天下の覇者』でした。また信長には三河国(現:愛知県東部)・遠江国(現:静岡県西部)を領土している家康「61万石(最大動員兵力数:約1万5千)」も組みしているので、武田軍にとっては更に不利な材料が増えています。

 

 『織田徳川連合軍(通算石高数:約361万石・総兵力:約9万)』VS「武田軍(通算石高数:130万石・総兵力:約3万)」となります。

 

 上記の経済格差では、武田軍は長篠で信長や家康とやり合うべきではなかったのであります。例え運良く武田軍が長篠で織田徳川連合軍との決戦に勝利していたとしても、武田軍の被害も甚大で満身創痍になっており、武田軍の経済力では第2ラウンドに備えての予備兵力や物資を補充できる余力は無い悲惨な状態であるのに対し、後方で強大な経済力と予備兵力を控えさせている信長は敗れたとしても、忽ち態勢を立て直し、武田軍に対して逆襲を開始していたに違いありません。武田軍は信長に対して1度決戦はできても、2度はできない状況でした。

 

 別記事である「長篠設楽原の戦いの勝因は鉄砲、そして陣城戦法」でも紹介させて頂きましたが、織田徳川連合軍は、設楽原の戦場に柵や土塁などで「陣城(防御陣)」を構え(野戦築城)、そこに終始籠り、武田軍の将兵と槍や刀を交えることなく、鉄砲(飛び道具)を大量運用することによって、陣城に向かって来る武田軍を一方的に撃ちまくったという、戦国期では画期的な「鉄砲」と「陣城」の2つの戦法を用いて勝利したのですが、武田軍では織田徳川が採った戦法の『対抗策を実行できなかった』のが敗戦原因でした。
 武田軍が出来なかった対抗策とは、それは「鉄砲(飛び道具)には鉄砲(飛び道具)で対抗する」という極めて簡単なものであります。織田徳川が陣城から出てこないのであれば、武田軍も鉄砲で散々撃ち返してやればいいではないか。しかし、武田軍には実行できませんでした。それは『鉄砲と弾薬の保有量が織田徳川に比べて貧弱』であったのであります。
 信長は、当時国内有数の鉄砲製造地であった和泉国・堺(現:大阪府堺市)や近江長浜などを支配下に治め、他の大名よりも安価に鉄砲を取り揃えることができました。鉄砲を撃つにはそれだけでは不十分であり、弾薬、特に「火薬」が重要になってきます。国際貿易都市でもあった堺、北国交易の拠点であった琵琶湖の良港・大津をはじめとする多くの海上・湖上交通ルートも抑えていた信長は、当時国内では生産不可能で外国(中国大陸)から輸入されてくる『硝石(火薬の原料)』も容易に入手できました。鉄砲と弾薬のセットを信長は迅速かつ大量に取り揃えることが出来る地の利を占めていたのであります。
 武田軍では、無敵の騎馬隊(筆者はどちらかというと、武田騎馬隊の存在には否定的です)が有名であり、鉄砲には関心が無かったと思われがちですが、信玄も鉄砲を合戦に利用するのは積極的であり、攻城戦などで利用されていましたが、甲信には古くから朝廷や貴族に献上するための馬を飼育する牧は各地にありましたが、鉄砲を生産できる有力な鉄砲鍛冶というのはありませんでしたので、武田軍は織田軍に比べると鉄砲を大量に取り揃えることは不可能でした。そして、火薬であります。先述のように、火薬と原料となる硝石は交易にて中国大陸(西国)から輸入されていましたが、東国かつ海を持たない武田軍は、肝心の硝石を入手できることは困難でした。更に、西国の陸海交易ルートは、既に信長の独占状態となっているので、彼に敵対している武田軍には余計硝石が入ってこないジリ貧状態でした。

 

 以上のような地理的不利を抱え、鉄砲が少なく、それに必要な弾薬(特に火薬)も不足しているという状態で、武田軍は自軍の2倍を超える大兵力と大量の最新兵器・鉄砲と弾薬を持って、堅固な陣城に籠っている織田徳川と戦うことになったのであります。これでは天下無敵の武田軍も手も足も出せなるのは当然の理であり、武田軍は負けるべくして負けたのであります。結局は、勝頼と武田軍は弓矢の沙汰で信長・家康負けたのではなく、金と物資の合戦、『経済戦争で信長に負けた』ということであります。

 

 今記事では経済力で勝頼の負けを紹介させて頂きましたが、次回の別記事では、違う観点として「大将としての勝頼が滅んだ理由」を探ってゆきたいと思います。