英雄・上杉謙信が苦しんだ「家臣の造反」

以前の別記事では、戦国随一の名将である甲斐国(現:山梨県)の武田信玄が拠った山間地の領国で味わった「地の不利」について紹介させて頂きましたが、今回は信玄と双璧を成し、信玄と名勝負・川中島の戦いで激闘を繰り返した越後国(現:新潟県)の『「上杉謙信」が味わった不利』について紹介させて頂きたいと思います。
 先述のように信玄は「地の不利」を生涯を通して味わった苦渋でしたが、謙信の場合は、日本海航路の要衝である直江津と柏崎港を支配下に治め、当時の貴重な繊維原料・青苧の一大生産地であった越後を支配していたという「地の利」には恵まれていたにも関わらず、『人の不和』に生涯に渡って苦しめられ、信玄と並び称された程の名将でありながら、織田信長の後塵を拝し、天下に覇を唱えることは叶いませんでした。
 謙信と言えば、NHK大河ドラマ『風林火山(2007年・第46作)』で歌手であるGACKTさんが神懸かり的な魅力を醸し出し、家臣団を従わせる文字通りの「カリスマ戦国大名・上杉謙信(政虎)」を演じらて話題となり、後年同ドラマの「天地人(2009年・第48作)」では俳優の阿部寛さんが、信義を重んじ不屈の闘志と意志を持ち、その力強い信念と魅力で家臣団を従わせている、というGACKTさんの謙信とはまた違った「カリスマ謙信」を演じられておりました。
 飽くまでもドラマでありますので、創作の部分があるのは当然なのですが、上記の2作を代表とするように、一般的に戦国大名・上杉謙信とは「合戦に滅法強いだけでなく、戦国という争乱期の中で、自分の私益(領土欲)を捨て、義を重んじ、弱者を援け強敵を挫くという信念を持って、戦う人格優れた名将であり、その主君の魅力に心酔した家臣団は一糸乱れず謙信に従ってゆく」、という勇猛果敢な正義の人というイメージであります。しかし残念ながら、他の謙信ファンの方々(実は筆者も謙信ファンの1人であります)には申し訳ないのですが、実際の謙信は(先述のように)「人の不和」を味わった戦国大名でした。

 

 謙信が味わった「人の不和」とは具体的にどういうことなのか?それは上記のドラマのようなカリスマ謙信の下、強固な結束力を誇る上杉軍団というイメージとは程遠いものであり、謙信は麾下の有力家臣団(国人領主)の統御に大変な苦労を強いられており、よく配下家臣が敵方である武田氏や小田原北条氏に寝返ったり、反旗を起こされたりしていました。
 天下一等の勢力になった晩年期の信長も、盟友関係であった浅井長政に突如裏切られたのを皮切りに、自身の外様家臣団である荒木村重・別所長治・小寺政職、そして明智光秀などに謀反を起こされていますが、実は謙信も信長に負けず結構自分の家臣に裏切られているのであります。
 信長の場合は、織田氏の本貫地である尾張国(現:愛知県西部)出身者の譜代家臣ではなく、他国出身者で織田氏に仕えて歴史が浅い外様衆に限って信長を裏切っていましたが、謙信の場合は、代々越後を本拠とし、謙信と生国を同じとし、どちらかと言うと長尾氏(謙信の本姓、越後守護代の家柄)の配下歴が長い、譜代家臣や有力国人によく裏切れてしまっているのであります。
 謙信が配下の家臣団に頻繁に裏切られるという「人の不和」を味わい続けた原因とは何だったのか?それを探ってゆきたいと思います。

リーダーとしての謙信が犯してしまった最大のミスとは?

東進ハイスクールの人気講師・林修先生の冠番組である「林修の今でしょ!講座(TV朝日系列・毎週火曜放送)」内で林先生との遣り取りで話題となっており、筆者も非常に尊敬しております東京大学史料編纂所教授・本郷和人先生がお書きになられた『真説戦国武将の素顔(宝島新書)』という名著があります。
 本郷先生がお書きになられる歴史書の特徴は、林先生とのバラエティーに富んだ遣り取りをされる程の諧謔センスをお持ちになり、また人気アイドルグループAKB48の大ファンであることをご公言されるほどのユニークなお人柄を見てもわかるように、複雑な日本史の全景や人物像などを堅苦しい表現をお遣いにならず、親しみに満ちた文面で、非常に解り易く解説して下さっていることであります。『上記の著作』もその例に漏れず、三英傑や謙信の宿敵である武田信玄・島津四兄弟・今川義元・毛利元就といった「有名戦国武将の(表題通りに)素顔(欠点)」をユニークに書き綴っておられます。
 先生は勿論、有名戦国武将である上杉謙信のことも書いておられるのですが、先生の謙信評は散々たるものであり、特に自身の後継者を決めず急逝していまったことについては、『大名(組織のリーダー)としては愚か者』と一刀両断されております。その先生の謙信評は以下の通りでございます。

 

 『謙信は「越後の龍(越後の虎とも)と言われるように武将としても評価は受けています。さらに内政面でも評価は高いのですが、謙信が、なにをおいてもドジなのは、後継者問題なのです。あれはもう「ただの愚か者」ですね。(中略)自分が死んだあとの上杉家の行く末を考えて、自分の後継者をどうするかということは、あらかじめ考えておかなければならなかった。今の企業もまったく同じですが、次の社長を決めないで死んでしまうのは、もう無責任というか「ただの愚か者」としか、言いようがありません。』

 

 『ふたりいる養子(筆者注:謙信の甥である景勝、北条氏康の七男である景虎)のうち、どちらかを自分の後継者にするかということを、謙信がハッキリと決めていなかったことは間違いない。このことは本当に愚の骨頂で、実際に上杉家はふたつに割れてしまい、勢力が削がれてしまっている。これはあまり注目されていないことですが、本能寺の変が起こって一番得をしたのは誰かというと、景勝だという言い方もできるわけです。上杉家は本能寺の変がなければ、織田信長に滅ぼされても仕方がない状態だったわけですね。(中略) 謙信が存命中には、越中国(現:富山県)から能登国(現:石川県能登半島)を平定し、加賀国(現:石川県南部)にも勢力を伸ばしているという状況でしたが、そこから越中国まで全部奪われてしまい、越後国を丸裸にされそうな状況までになってしまっていたのです。』

 

 『景勝の時代になって、そこまで勢力が後退した原因がなにかといえば、(中略)、上杉家が、越後一国を保持するのが精一杯という状況にまで落ちぶれてしまっていたことに尽きるのです。それもこれも、すべて謙信が後継者をきちんと決めず、育ってなかったことで内戦(筆者注:後館の乱)が起こり、上杉家はダメになってしまいました。謙信が生前に継嗣を決めておきさえすれば、上杉家の衰退はなかったということなのです。謙信自身も、若い頃に病弱な兄(筆者注:晴景)との後継者争いに巻き込まれて、後継者の重要性が、身にしみてわかっていたはずなのに、なぜかやらない。(中略)そこが謙信にとっては一番のマイナス点です。

 

 (以上、「後継者を決められない優柔不断な漢」 より)

 

 上記のように本郷先生は、戦国乱世を生きる戦国大名にあって自分の後継者を決定せずに死んでしまった謙信のことを『愚かとしかいいようがない』と書いておられます。確かに、1577年に加賀の手取川の戦いで謙信率いる上杉軍3万は、柴田勝家率いる織田軍5万に完勝し、上杉氏の武威を天下に知らしめるほどの勢いでありましたが、その翌年1578年に謙信は急死し、謙信の2人の養子であった景勝と景虎が謙信の跡目を争う内紛・御館の乱が勃発し、それから約2年間(1580年まで)、上杉一門や家臣団・有力国人衆たちは景勝派と景虎派の真っ二つに割れ、越後国内で骨肉相食む戦いを余儀なくされたであります。結果的に景勝派が勝利し、景勝が上杉氏当主になるのですが、最早、3年前に手取川で織田軍を打ち破ったほどの天下無敵の上杉軍団は内戦によって完全に消耗し切っていました。
 御館の内戦で満身創痍になり果てた上杉氏の反面、中央では織田信長が天下の覇者としての地位を確固たるものにしており、彼我の経済力や戦力に大きな差が出来てしまい、上杉氏は天下取りのレースから滑落し、織田軍に滅ぼされる危急存亡の秋を迎えるに至ったのであります。

独善的過ぎたことにより家臣たちの造反を招いた謙信

 謙信は「義の人」という表看板を掲げ、武田信玄に追い詰められた信濃国(現:長野県)の国人衆の要請に応じ、信玄と北信濃へ度々出兵したり、かたや関東では小田原北条氏に追い詰められていた室町幕府の関東出先機関である関東管領・上杉憲政および関東の反北条氏勢力を援け、越後と関東の国境である三国峠を遥々越えて、武蔵国(現:埼玉県と東京都一帯)・相模国(現:神奈川県)の南関東、常陸国(現:茨城県)や下野国(現:栃木県)などの北関東へも遥々と遠征しています。しかし、どれも結果的には目立った成果が無い、謙信の失敗に終わってしまっており、上杉氏は無駄な大きな財力や人材(兵力)を無駄に消費した挙句、ノーリターンの大損を被った結末でした。
 謙信が自分は正義の味方だ!と大声を上げて、自分だけ揚々と出陣している感じですが、この正義の味方・謙信の度重なる「無利益の無駄」な遠征で一番負担が掛かったのが、謙信配下の家臣団や越後の有力国人衆でした。謙信自身は、利益を度外視して戦っていれば、それで良かったかもしれませんが、それに付き合わされる謙信麾下の家臣団からしてみればたまったものではありません。
 当然のことながら合戦、他国に攻め込む遠征となれば尚更ですが、軍勢を動員するための兵糧や武具の調達・兵力の確保するには経済的負担は大きなものであります。それでも家臣団(国人衆)が大名に従って合戦に赴くのは、勝った後の「褒賞(恩賞)/新たな領土」が欲しいためであり、それを達するために家臣団は、従っている大名に自分たちが可能な限り供出できる軍事力や経済力を提供し(即ち軍役を果たし)、人員的にも経済的にも負担が大きい遠征に従うのであります。
 この家臣団の褒賞への執着心は決して強欲なことではなく、寧ろそれが武士が政権を確立した鎌倉期から確立された「武将としての当然な主張」であり、戦国期でもそれは全く変わりません。家臣団を使う大名もそれを心得ており、配下の家臣団や国人衆には戦場で働いた相応の褒賞を、家臣団内部に不満が残らないように与えるのが、大名の第一条件でした。
 駿河台大学法学部教授で歴史学者の黒田基樹先生(大河ドラマ「真田丸」の時代考証をご担当)は、自著『百姓から見た戦国大名(ちくま新書)』で、戦国大名と家中(家臣団)の関係を『双務契約関係であった』(つまりGive and Take)と書かれておられます。家臣団は大名に対して忠誠を誓う(軍役を果たす)ことによって、大名は家臣団に対して領地を安堵、褒賞を与えることによって、家臣団を使ってゆくというものであります。
 謙信の場合はどうでしょう。配下の家臣団に信濃や遠い関東に遠征を命じておきながら、それらの一部も完全に支配することも能わず、結果的に収穫ゼロ。新たな領地が手に入っていないので、家臣団は謙信から褒賞を貰うこともできない。現代風に言えば、散々働かせておいて給料はなし、であります。これでは社員(家臣団)の企業(大名)に対する忠誠心が消え失せ、不満が起こり、内部の統御不能になることは必定であります。しかし、上杉氏の社長である謙信はそれをやってしまったのであります。これにより謙信は配下との不和を招き寄せしまいます。
 謙信は、「大熊朝秀(箕冠城主)」・「北条(きたじょう)高広(北条城主)」・「本庄繁長(本庄城主)」といった自身の有力家臣に裏切られています。全員謙信と同じく越後出身の武将であり、大熊は、父・政秀の代から仕える謙信の譜代的家臣で、自身の居城であった箕冠城(上越市板倉区)も主君・謙信の春日山城(同市)とは至近距離にあったほど主従関係が深かったにも関わらず、謙信の宿敵・信玄に寝返り、北越後(現在の村上市)に拠っていた本庄も信玄の調略によって謙信に反旗し(結果繁長は敗北。謙信に降伏し、赦される)、北条に至っては2度も謙信を裏切り、初めは信玄に唆され、謙信に反旗を翻し、失敗。謙信に赦されるも、今度は北条氏康(高広とは血縁関係はなし)に通じて、謙信に背いていますが、これも結果的に謙信に赦され、再び謙信に仕えています。
 越後国内に割拠する国人衆、特に北越後の阿賀野川以北の国人衆・「揚北衆(あがきたしゅう)、色部氏・新発田氏・中条氏・本庄氏など」が戦にも強く、独立不羈の心を持つ連中であり、彼らを統治者するべき謙信からしてみれば一筋縄ではいかない存在でした。
 謙信の本来の出自である長尾氏は越後守護代であり、現在で敢えて譬えるなら「副知事クラス」ですが、謙信の父・為景の代で、下克上で越後国内で長尾氏の勢力は急成長し、上司である越後守護大名(県知事クラス)である上杉氏(関東管領・上杉氏の分家筋)を凌ぐほどの勢力を誇りますが、この為景の上司をも蔑ろにするような強引策に反対する長尾氏一門衆(特に上田長尾氏、上杉景勝の実家)や守護上杉氏寄りの越後国人衆も多く存在し、これらが長尾氏に対して強弁に抵抗を示し、為景もこれら敵対勢力の対処に苦慮しており、この課題は為景の息子である晴景(謙信の兄)、そして謙信(景虎)の代にも残されました。
 以上の経緯もあり、謙信は越後国内の家臣団や有力国人衆を統御してゆくには元来難しい立場でありましたが、大熊・本庄に背かれ、北条に至っては2回も裏切れれるという、人の不和の辛酸を舐め続けているのは尋常でありません。先出の本郷先生は謙信家臣団の裏切りの原因を、『謙信の独りよがり』と指摘して、以下のように詳しく仰っておられます。

 

 『たとえば北条高広という武将には、上野国、今の群馬県を任せていました。雪が降り始めると上野国へは、越後からだと救援に行けないのです。だから「頑張って。どうにか任せたよ」といっているそばから、高広に裏切られるわけです。しかも2度も。でも謙信は裏切られても、またすぐに許してしまう。やはり許さざるを得ないのでしょう。上杉家には、「それほど人材がいないのか?」、それとも「謙信に人間的な魅力がないから、すぐに裏切られてしまうのか?」、その辺りをどのように捉えればいいのかわかりませんが、非常によろしくないですよね。』

 

 『まず、何度も裏切られること自体が変ですし、裏切った者に対して厳しい態度が取れない。すると、裏切り得となり、「じゃあ裏切るか」とホイホイ裏切ってしまいます。』

 

 『大熊朝秀も父・政秀の代から上杉家に仕える重臣で、長尾景虎(謙信)を擁立したひとりで、そのため謙信も重用していたのですが、朝秀は謙信最大のライバル信玄に寝返ってしまのです。ですが朝秀は信玄のところでは忠実に仕え、最終的には天目山で勝頼と運命を共にし、武田家を裏切ることなく死んでいます。こういう家臣の行動を見ると、信玄のほうが主人としては上なのかな。』

 

 謙信がすぐに裏切られるのは、政治的な手腕というのがなかったせいかもしれません。家来としては、主人が「義の武将」と呼ばれていたとしても、領土欲が持たないのではなんのために戦うのかわからない。主人がひとりで粋がり、「義の武将」と呼ばれていいかもしれないですが、「独りよがり」ではダメなのです。家来たちにも自分と同じ夢を共有させることができないのなら、リーダーとしては失格でしょう。乱世で生き残ることを考えたときに、誰もついてこなくなります。』

 

 (以上、「独りよがりな義の武将」 より)

 

 また本郷先生は、謙信が室町幕府の権威(関東管領職など)や秩序を有難る政治的手腕の古さも指摘しておられるばかりか、関東管領・上杉氏の名跡を継いだ謙信は、その職務を全うするために関東平定のために乗り出すのですが、越後の上越地方にある本拠地・春日山城からわざわざ南東の関東に出陣してくるという、その戦略の拙さを『ムダが多過ぎ。下策としか言いようがない。』と断じておられます。こういう謙信の無駄の多さでロスされる時や労力が家臣団にとっては辟易するものであり、それが謙信に対する反乱、人の不和に繋がった大きな原因の1つであったかもしれません。
 謙信が長年行っていた徒労の多い関東出兵を控え、近場の越中や能登などの北陸を制圧する現実的な戦略転換を行い、切り取った領地を家臣団に分配し、上杉氏家中の融和を図るようになったのは、謙信が40代半ばになった頃でした。これを境に、負担が減り、新たな褒賞を頂戴できるようになった上杉家臣団は謙信の下、結束するようになってきたのであります。しかし、この時すでに畿内・東海などの広大な勢力範囲を築いていた織田信長の猛威が北陸にも迫っている時期である上、謙信が後継者を決めず1578年、49歳にて春日山城で急死したことが発端となり、養子であった景勝と景虎の間で御館の乱が勃発、漸くまとまりかけた上杉氏は再度乱れ、勢力を大きく減退させてしまい、織田軍によって滅亡の淵まで追いやれたのであります。

結局、自ら「人の不和」を招いてしまった英雄・謙信

 謙信の有名な逸話として「出家騒動」がありますが、若き謙信(当時は長尾景虎)が配下国人衆であった上野家成と下平吉長との間で魚沼郡上田の領有権を巡って争いが発端となり、上野には謙信が幼少時より仕えていた譜代家臣・本庄実乃(慶秀とも。栃尾城主)が加担し、下平には、実乃とかねてよりライバル関係であった重臣・大熊朝秀が味方するという大規模な上杉氏(長尾氏)の内部分裂を引き起こすまでに至りました。当時の謙信は、外敵に甲斐の武田信玄と対峙で苦慮し、内憂には上記の内部分裂騒動で苦境に立たされるという、文字通り内憂外患の時であり、これに嫌気が指した謙信は大名としての責務を放棄し、越後から逐電してしまった騒動であります。この騒動が発端となり、大熊は謙信を見限り、信玄に寝返ってしまいます。
 結果的に、一門衆筆頭である義兄(姉・仙洞院の婿)である長尾政景など側近衆の説得により謙信は出家を思い留まって大名として復帰するのですが、本郷先生はこの謙信が引き起こした騒動も『どうみても政治家としてはダメダメですよね。政治家・謙信には、誰がどのように考えてみても、そうよい点数はつけられないでしょうね。』と酷評されておられます。

 

 実は、この謙信についての記事を執筆させている途中までは、記事名を「上杉謙信が味わった人の不和」と銘打って公表させて頂くつもりでしたが、いざ記事を書き終わってみると気が変わりました。偉大な本郷先生から受けた影響がないわけではないのですが、謙信が生涯を通じて味わった人の不和の原因は、明らかに謙信自身にもあるということがわかったからであります。よって題名も「上杉謙信が招いてしまった人の不和」とさせて頂きました。 合戦での勝率が9割以上という戦の天才であり、越後領内には国内有数の金山、直江津と柏崎という日本海交易の要衝という宝庫を抑え、それらから莫大な利益を得ており「地の利」にも恵まれていた上杉謙信。謙信が、もう少し若き頃より家臣団との「人の和」を尊重していたなら、強豪・上杉氏の結束力は一段と高まり、信長を打倒して天下の覇者にも成りえた確率もあったかもしれないのが、実に一謙信ファンである筆者としは、謙信が招いてしまった人の不和が実に惜しいと思われてなりません。