厳島の戦いの行方の鍵を握っていた「水軍=海賊」

以前の記事では、安芸国(現:広島県東部)の戦国大名・毛利元就(兵力:4千)と周防長門国(現:山口県)の大内氏の支配者・陶晴賢(兵力:2万)が戦った「厳島の戦い(1555年)」がおこった主因を『富の島・厳島の争奪戦であった』と紹介させて頂きましたが、今記事では、兵力差で圧倒的に不利であった元就が晴賢に勝利できた大きな理由が、(よく言われる元就の謀略の成果ではなく)、『元就が瀬戸内海を制した(制海権をとった)ことであった』からであります。「元就が瀬戸内海を制した(制海権をとった)」とはどういうことなのか?それは戦国期当時、瀬戸内海(芸予諸島)に本拠を置き、戦国期の良き記録者である宣教師ルイス・フロイスをして『日本最大の海賊』と評された海の王者・『村上水軍』を元就が味方を付けたということであります。

 

 今更ですが、「水軍」とは何か?文字通り「水上で戦う軍勢(水上兵力)」であり、江戸期に呼ばれた軍勢名であり、別名:「船手組」とも呼ばれていました。江戸期以前には一般的に「海賊衆」という野蛮なイメージを漂わせる呼び方をされており、戦国大名支配の海賊衆は「警固衆」とも呼ばれていました。
 水軍は近代軍隊部類でいうところの「海軍(海上のみの兵力)」に相当するのですが、日本や中国大陸の東洋の水軍では「湖上」や「河川上」にも存在しており、有名な中国三国時代の一つであった長江(揚子江)流域に勢力を張った呉国(孫氏一族)の率いた水軍は強力な河川の水上兵力でありましたし、国内では、琵琶湖北西部には「湖賊」と呼ばれた湖上兵力が存在し、山陽では元就が村上水軍と手を結ぶ以前に、安芸国守護大名・武田氏を滅ぼした後、安芸武田氏が支配下に治めていた佐東川(現在の太田川)周辺に拠っていた水軍衆を入手し、それらを「川内警固衆」という水軍衆にまとめて毛利氏支配下に置きました。のちに村上水軍なども含めて戦国期最大規模の水軍を擁することになる有名な毛利水軍は、この「川内警固衆」が元祖となっています。

 

 四字熟語で「南船北馬」というのがありますが、これは中国大陸は「北方が広大な陸地が続いているので馬での移動が適し、南方は長江などの長大な河川や湖があるので船での移動が適している」という意味であることは皆様よくご存知だと思いますが、日本の場合は、「西船東馬」という地理的環境であり、東北から関東、あるいは甲信などの東国の平野・山岳地帯は、古来より名馬の産地であり、中世に東国から騎乗武芸が得意な関東武士団が源氏の棟梁・源頼朝を奉戴して歴史の表舞台に登場するのですが、対して西日本である近畿・山陰山陽・四国といった海が面する地域は海上交通が盛んであり、船の往来が多くあり、それに伴って船を生業とする集団も出てきました。その1つが水軍(海賊衆)であり、それらを討伐あるいは懐柔することによって平忠盛(有名な平清盛の父)が平氏一門の繁栄の礎を築き上げました。
 中世の日本には、紀伊国(現:和歌山県)の紀ノ川流域を本拠とした「熊野水軍」・摂津国(大阪府北部および兵庫県南東部)の渡辺津を本拠としていた「渡辺党」・九州では肥前国(現:佐賀県および長崎県)の松浦地方を本拠とし、鎌倉期の元寇の折、蒙古軍相手に戦った「松浦党」など、西日本を中心に多くの水軍が割拠していましたが、戦国期になると瀬戸内海上の芸予諸島に本拠を置く『村上水軍』が最大水軍勢力になっています。
 瀬戸内の制海権を握っていた海の王者・村上水軍、その村上水軍を当時(厳島の戦い)、晴賢より遥かに弱小であった元就が何故味方に付けることができたのか?それをこれから探ってゆきたいと思います。

「日本最大の水軍(海賊)」と呼ばれた村上水軍

 大小3千の島々がある瀬戸内海の中央部、現在の山口県上関町から香川県塩飽諸島まで東西約170kmにも及ぶ海域を支配して絶大な力を誇り、陸の権力者である中央政権(朝廷・幕府)や戦国大名などにまつろわぬ(媚びない・従わない)海の王者・『村上水軍(海賊)』は、源氏の棟梁として有名な河内源氏の庶流である信濃村上氏(戦国期に猛将・村上義清が登場する家系)を起源としている説が有力であり、村上定国という人物が平安中期に塩飽諸島に居を構え、次いで越智大島に本拠を置いて土着したことにより興った勢力が後の村上水軍であるとされています。
 平安末期に瀬戸内地方に土着し、勢力を蓄えてきた村上水軍が歴史の表舞台(文献上)に本格的に登場するのが、室町期初期の南北朝時代からであり、この時には既に因島などを拠点に東西に伸びる瀬戸内海の制海権を支配しており、『海上に関所(札浦/関銭)』を要所の島々(その中心地が厳島)で瀬戸内を航行する船から通行料を徴収したり、島々が入り組み、潮流の変化が激しい瀬戸内を船が安全に航海できるように『ナビゲーター(水先案内人)の派遣』、船が他の海賊衆に襲撃されないように『海上警固』を行い、船から『駄別銭(だべつせん、「報酬=積荷の1割」)』を受け取ることによって利益を得ていました。折しも室町・戦国期は海上交易が盛んであり、中国大陸(明王朝)・ルソン(現:フィリピン)など東アジア諸国との交易、後にはポルトガルなどの西洋諸国との南蛮貿易が加わり、日本国内外には多くの船が瀬戸内海を航行していたので、その船からの通行料の徴収やナビゲーターや海上警固することによって、村上水軍がどれほどの利益を得ていたかが想像できます。
 東海大学海洋学部教授で経済学者でいらっしゃる山田吉彦先生に拠ると、波や潮流の変化が激しい瀬戸内海を相手にすることによって育まれた村上水軍の超越した操船術、特殊技能を『海洋警備力』という商品にしてゆくことによって、通行料や駄賃銭の収益を上げていたということです。これは陸の権力者では到底真似できない芸事であり、ビジネスでもあります。
 「水軍=海賊」は、名前に「賊」という文字が入ってしまっているために、どうしても野蛮・粗野で盗賊、つまり神出鬼没に現れ、通りがかりの船を問答無用で襲撃し、積荷を強奪するようなイメージがつきまとってしまいますが、上記のように村上水軍は、激しい潮流や島々が入り組んで複雑な瀬戸内海を、船が安全に航行できるように「ナビゲーター兼ガードマンを行って収入を得ていた」という至極真っ当な生業でした。村上水軍が「襲撃」という暴力手段を船に対して行うのは、通行料や駄別銭の支払いを拒否した船に対してのみであり、瀬戸内海を通り掛かるすべての船に対して無暗に襲撃していたわけではありません。
 村上水軍にはもう1つの別の顔を持っていました。それは船から徴収した駄別銭や通行料を元手に「海洋貿易」を行い、更なる莫大な収益を上げていた『貿易商社』という側面を持っていました。その証左として戦国期に村上水軍の棟梁格であった能島村上氏の本拠地・能島の近くにある見近島からは中国大陸や朝鮮産の陶磁器の破片などが1万2千点も発掘されており、村上水軍が貿易に関与し、大きな富を獲得していたことが判明しています。

 

 畿内で一大宗教勢力であり織田信長と敵対した比叡山延暦寺は、金融業(高利貸し)や関所を設けて人々から通行料を徴収して莫大な財力を築いていましたが、村上水軍も先述のように、瀬戸内海上に関所を設け、航行する船から通行料を徴収や海上警固をすることによって海上の大勢力となりました。
 巨大な財力により栄えた村上水軍は戦国期には、村上師清の子孫(諸説あります)が「因島村上氏(現在の広島県尾道市)」「来島村上氏(愛媛県今治市)」『能島村上氏(今治市)』の3家に別れて瀬戸内海に割拠しており、一応、先述のように能島村上氏が3家の棟梁的存在となっていましたが、それぞれ独自の外交展開などを行っており、独立勢力となっていました。因みに能島当主が「村上(野島)武吉」であり、先述の宣教師ルイス・フロイスが評した「日本最大の海賊」というのは、この武吉ことを指しています。
 戦国期に周防長門の大内氏の勢力が伸張してくると、村上水軍は大内氏の傘下に入っていますが、当時国内随一の海上経路(瀬戸内海)を完全に抑え、そこから出てくる財力を吸い上げて、海で強大な軍事力を擁する村上水軍は、完全に大内氏配下家臣団になってのではなく、実情は名目上の大内氏への従属で、相変わらずの独立勢力あり、当時西国一の戦国大名・大内氏に村上水軍の既得権(通行船からの通行料を徴収権や駄別銭徴収権など)を認めてもらう代わりに、大内がどこかの敵勢力と合戦になった場合、水軍を率いて大内軍に加勢したり、兵や物資を輸送する軍船を提供する役目(軍役)を担うというものでした。傘下に入るというより、大内氏とほぼ対等な同盟関係に近かったのではないでしょうか。事実、大内氏は、村上水軍が以前から行っていた通行料・駄別銭の徴収権を是認しており、中国地方の陸地では強力な勢力を誇っていた大内氏でさえも、海の大名・村上水軍の勢力には一目置いていたのであります。

 

 村上水軍と大内氏の関係は、1555年、大内氏重臣・陶晴賢(当時は隆房)が当主・義隆を「大寧寺の変」で滅ぼし、晴賢が大内氏の実権を把握したことにより終わりを告げます。武断派であり独善的な性格が強かった晴賢は強引な手段で大内氏をまとめることに躍起になり、それまで大内氏配下の毛利元就をはじめとする国人衆へ対しての統制を更に強めてきました。
 結果的に、この晴賢の強引策が裏目に出てしまい、石見国(現:島根県東部)の有力国人で晴賢に殺された義隆の姉婿であった吉見正頼が晴賢に反旗を翻し、次いで安芸で新興戦国大名として勢力を伸ばしていた毛利元就も晴賢に対して決戦を挑むことになり、晴賢自身の破滅(厳島の戦い)、そして大内氏の滅亡につながってゆくことになるのですが、それを知る由もない当時の晴賢は、己の力(大内氏の力)を過信し、村上水軍に対しても強引な締め付けを行ってきました。

陶晴賢に『大きな財源(駄別銭)』を剥奪された村上水軍の怒り

 大内氏の実権を握った晴賢は、それまで大内氏が認めていた村上水軍の既得権『駄別銭の徴収権』を禁止を命令してきたのであります。人間、特に人が集団化した勢力(この場合は村上水軍)になると、それまで持っていた利権や好条件を一方的に取り上げられたりすると、その実行者(この場合は晴賢)に対して異常な反発心(あるいは憎悪)を抱くものであります。だたでさえ、荒くれた海を相手に鍛え上げられた水軍(海賊衆)は人並み以上に自尊心が強い上、その最大勢力である村上水軍であり、自分たちの力で獲得してきた既得権を晴賢の強引で取り上げられたのですから、村上水軍の怒髪衝天ぶりは凄まじいものであったに違いありません。
 村上水軍は当然、晴賢が出した「駄別銭の徴収禁止令」に猛反発し、駄別銭の徴収権回復を求めますが、諸事独善的な晴賢はそれに応じたり、妥協した姿勢を見せた形跡はありません。飽くまでも晴賢は村上水軍に対して強弁でした。
 何故、晴賢は村上水軍に対して、上記のような強引手段を採ったのか?晴賢ほどの人物(西国無双の侍大将と謳われた名将)であれば、駄別銭の徴収権を取り上げれば村上水軍の大きな反発が来ると容易にわかったはずであります。NHK大河ドラマ「毛利元就」(1997年)の原作者である作家・永井路子先生は、以前のNHK歴史番組「堂々日本史」にゲスト出演された際に、当時の晴賢がとった強引策を以下の通り仰っておられます。

 

『これは「大企業(筆者注:名門大内氏)の驕り」と言ってもいいかもしれませんけどね、村上を締め付ければ、村上が参ったと言うと陶晴賢は思ったのでしょう。これは「晴賢の過信、計算違い」ですね。』(「毛利元就 決戦厳島 50歳からの挑戦」より)

 

 永井先生が仰る「晴賢の過信」により、村上水軍は晴賢に降参するどころか、先述のように元来誇り高い村上水軍は、晴賢に対して憎悪を持つようになりました。この晴賢と村上水軍の遣り取りを、つぶさに観察し村上水軍を味方に付けようとしたのが、毛利元就であります。
 元就は、晴賢と敵対する以前から、厳島の有力商人に対して酒などを贈ることによって友好関係を築く根回しを行っていましたが、村上水軍に対しても手をしっかり打っていました。元就の三男で、水軍と所縁の深い有力国人の小早川氏の養子となっていた「小早川隆景」は、小早川氏重臣で水軍武将であった乃美(浦)宗勝を通して、毛利氏と村上水軍の友好関係を徐々に構築していました。宗勝の妹が因島村上氏当主・吉充(よしみつ)の正室であったので、村上水軍の中でも特に因島村上氏は、厳島の戦い以前よりも毛利氏とは近しい間柄でした。更にその因島村上氏を使って、元就や隆景は能島村上氏・来島村上氏も味方に引き入れようと下工作をしていたのであります。永井先生は、元就の用意周到性を以下のように仰っています。

 

 『(将来に対して布石を打っていたのが)元就の凄い所で、その無駄な手を打っていないですよね。その時から「陶と戦うかな?」というほどは思っていなかったでしょう。ただ海(筆者注:海上交通経路とそこから得られる利益)は欲しいと思って、そういう時にはやはり村上と仲良くしなければいけないと、村上の船に護ってもらわなければ、自分たちも利益をもらえないから、だからこれはやっぱり、村上を敵にしてはまずい。仲良くしような。ということは、元就は考えてたでしょうね』
 
 『元就は、(晴賢に比べると)もう少し「妥協性がある」といいいますか、「現実的」ですよね。現実をよく見据えている。やっぱり計算して、じっくり皆にも良くしようとか、そういことを考えながらですね、じっと我慢の60年(筆者注:厳島の戦い時には元就58歳)ですから、そこは「経験の積み重ね」というものがですね、村上を引き寄せた原動力の1つとなったと考えます』

 

(以上、「毛利元就 決戦厳島 50歳からの挑戦」より)

 

 トップ(大企業)大内氏の身分の中で周囲に気兼ねすることなく成長してきたお坊ちゃま武将・陶晴賢に対して、晴賢(大内氏)と決裂する以前から村上水軍に対して根回しを行っていた毛利元就。安芸の一小国人勢力から身を興し、苦難の連続を乗り越えて戦国大名となった苦労人・元就が身に付けていた用意周到性によって、結果的には晴賢に勝利したのであります。
 講談や物語上では、村上水軍が元就が大敵・晴賢に命懸けで立ち向かってゆく勇姿に感銘を受け、元就に挙って加担したのが有名ですが、これは飽くまでも創作上のモノであり、事実は元就の事前の根回し(下工作)、それに加え晴賢が村上水軍の既得権を廃止したことにより、晴賢は村上水軍の怒りを買ってしまい、以前より友好関係を築いていた元就に味方したというものであります。

 

 因みに晴賢のように村上水軍に対して駄別銭徴収を禁止した大物が後年現れます。それが豊臣秀吉であり、晴賢が足元にも及ばぬ超巨大な勢力であった秀吉は、1585年に朝廷から関白の位を与えられ、名実共に天下人になった秀吉は、翌年の1586年に村上水軍に対して海の通行料および駄別銭の徴収を禁止する「海賊停止令」を発布しました。能島村上氏の当主・武吉は、以前の晴賢を相手にしたように秀吉の「海賊停止令」に強硬に反抗しますが、この当時、同族であった他2家の因島村上氏・来島村上氏と分裂して結束力も弱体化していたこともあり、結局は強大すぎる秀吉には敵わず、武吉は「海賊停止令」の前に屈服します。これにより約数百年、瀬戸内海を支配し、海の王者であった村上水軍の歴史は終焉となってのであります。

村上水軍が近代に遺したある「所産」とは?

 厳島の本戦では、強力な水軍および瀬戸内海の制海権を有していた村上水軍を味方に付けた元就が勝利し、村上水軍を敵に回してしまい制海権を失っていたにも関わらず、厳島に上陸していた晴賢と彼が率いる大軍は、決死の元就軍と村上水軍の奇襲を受けて、晴賢は討死してまい、大内軍の大軍も壊滅したのであります。
 晴賢は村上水軍の収入源(駄別銭)を断つことによって威圧的に村上水軍を従属させようとしたのですが、これが結果的に命取りになったので、晴賢は対村上外交を誤ったのでありますが、更に、瀬戸内海の支配者・村上水軍を敵に回した状態で制海権も不安的な状況でもあるに関わらず、上陸してしまえば身動きがとれない(逃げ道の無い)厳島に晴賢自ら上陸したのも大きな失策でありました。せめて晴賢は厳島に行かず、岩国辺りで本陣を構え、厳島攻略を目指すべきであったでしょう。そしたら最悪の場合でも大内氏の実力者・晴賢は万一、毛利の小勢に敗れたにしても、討死はすることなく、周防長門に逃れて再起を図ることもできたはずであります。
 「西国無双の侍大将」まで言われた晴賢でしたが、村上水軍の力を見誤ったことにより制海権を失って敗亡し、晴賢と村上水軍の対立を利用して、「敵の敵は味方」という真理を見抜き、村上水軍を味方に付けて、海を制した元就が勝ったというのが、「厳島の戦い」というものでした。

 

 厳島の戦いを経て、大内氏が元就によって滅亡した後の村上水軍は、毛利氏に従いつつも晴賢によって廃止されていた駄別銭の徴収権も取り戻り、瀬戸内海に君臨し続け、戦国最大の水軍である毛利水軍の中核を成すようになり、元就亡き後の毛利氏が当時、室町幕府や敵対勢力であった浅井氏や朝倉氏を滅ぼし、畿内や東海で勢力を振るっていた天下の覇者となる織田信長と対峙した際は、第一次木津川の戦い(1576年)で、覇者麾下の織田水軍を完膚なきまでに殲滅する威力を発揮し、村上水軍=毛利水軍は天下に勇名を馳せました。

 

 能島村上氏の当主であった武吉が記したとされる水軍兵法書「村上舟戦要法」は、遥か後年の明治期に、日本海海戦(1905年5月27日〜28日)で、当時世界一の艦隊とされていたロシア帝国(ロマノフ王朝)のバルチック艦隊を完全撃破する作戦を立案した聯合艦隊先任参謀・秋山真之が愛読し、彼が日本海海戦で立案した「七段構えの戦法」、そして日本海海戦の象徴的戦法とされている「丁字戦法(東郷ターン)」は、村上舟戦要法」からヒントを得たとされています。
 特に「七段構えの戦法」は、長編歴史小説『村上海賊の娘』(新潮社)の原作者である和田竜先生が、NHK歴史番組『BS歴史館』にご出演された際に村上水軍が、敵と戦う際には、七つの戦法を用いて戦ったことを紹介されていましたので、真之もその村上水軍の戦い方を近代戦術に応用したのであります。
 村上水軍が遺した所産は、近代でも生きていたことを示す1つの逸話でございました。