龍虎の名勝負・川中島の戦いとは?

今記事では戦国期の有名な合戦の1つ『川中島の戦い』の発生経緯などを中心に少し紹介させて頂きたいと思っております。川中島の戦いとは越後国(現:新潟県)の有力戦国大名・長尾景虎(後の上杉謙信)と甲斐国(現:山梨県)の戦国大名・武田晴信(信玄)が11年の間に5度に渡って、『北信濃国(現:長野県北部)の領有権』を巡って戦った総称となっています。5回に渡る戦いの総称および発生年は以下の通りであります。

 

第1次(1553年):「布施の戦い」
 南方(甲斐・南信)から侵攻してくる武田信玄軍に敗れた北信濃の国人領主(村上氏や須田氏)たちが、越後の長尾景虎に救援を要請。景虎はその求めに応じ、北信へ出兵。これにより、武田vs長尾(上杉)の名勝負「川中島の戦い」の火蓋が切って落とされました。

 

第2次(1555年):「犀川の戦い」
 犀川を挟んで武田・長尾が対陣。両軍とも戦前が膠着し、約200日にも及ぶ対陣後、武田の同盟勢力である駿河国(現:静岡県東部)の今川義元の仲介を経て和睦し、両軍とも撤退しています。

 

第3次(1557年):「上野原の戦い」
 武田が再び北信・善光寺平付近の制圧を目指して同地の攻略を開始し、川中島一帯も制圧。更に長尾側である飯山城の高梨氏(景虎の縁戚)にも矛先を向けました。これに対し、景虎は信玄と雌雄を決するべく北信へ出陣しますが、信玄は景虎からの挑戦を避け続け、決着は付きませんでした。

 

第4次(1561年):『八幡原の戦い=川中島の戦い』
 室町幕府の要職である関東管領・上杉氏の名跡を継いだ景虎(上杉政虎)は、川中島を制圧した後、同地に海津城(松代城)を築き北信完全制圧に近づきつつある武田氏勢力を一掃するべく、1万8千の大軍を率いて出陣。対し信玄も2万の兵力で出撃。結果的に川中島内の八幡原一帯で激突していますが、両軍とも多くの将兵を犠牲にしながらも痛み分けとなっています。

 

第5次(1564年):「塩崎の戦い」
 飛騨国(現:岐阜県北部)の国人領主が武田方・上杉方となって抗争を繰り返しており、信玄が飛騨での戦況を好転させるべく出陣の気配を見せたので、輝虎(政虎から改名)は信玄の動きを封じるために川中島へ出陣。信玄もこれに応じて、善光寺平の南にある塩崎城(長野市篠ノ井)まで出撃し、両軍は睨み合いになりました。約2ヶ月の対陣後、両軍は撤退しました。これ以降、輝虎と信玄の直接的対決は無くなり、結果的に川中島を含める北信濃の領有権は武田側が手中にすることになり、上杉方は信濃方面経略から完全撤退することになります。この後、信玄は南方の駿河今川氏、やがて徳川氏や織田氏と対決する西上作戦に着手するようになり、輝虎は関東・北陸への出兵を主にするようになります。

 

 第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)は5度に渡る合戦の中で最大規模かつ最大の激戦であり、この戦場となったのが千曲川と犀川が合流する中洲(平坦地)・『川中島(長野市南郊)』中心であったので、他の4度の戦いも『川中島の戦い』と総称されるようになっています。
 有名な伝説となっている騎乗の上杉謙信(当時は政虎)が敵軍である武田本陣で単騎で突撃し、床几に腰を据える宿敵・武田信玄に太刀で斬りかかり、対する信玄は軍配で応戦するという「三太刀七太刀の一騎打ち」はこの第4次合戦の最大の山場となっています。

 

 どちらかと言えば信憑性が低い一騎打ちの伝説(筆者自体はこの伝説が好きですが)が誕生するほどの越後の龍・上杉謙信と甲斐の虎・武田信玄という後世まで残る名勝負・川中島の戦いは、何故発生したのか?今度はこの理由について紹介させて頂きます。

俄然、北進戦略を採る武田信玄、それを北信(川中島)で迎撃する上杉謙信

 武田信玄の本拠地である甲斐国(山梨県)は、四方を急峻な山々や丘陵に囲まれており、甲府盆地を除けば平坦地が極めて少ない地理的環境となっています。平坦地が少ない、とはどういう事か?それは当時の経済基盤となっている米を生産できる場所が少ないということになります。つまり甲斐国は『米の生産力(石高、1598年の検地で僅か「約22万石」)が低く、農業後進地帯』であった貧しい国であったのです。その不利な地理的環境に加え、甲斐国内では多くの国人領主が各盆地に割拠しており、ただでさえ生産力が乏しいのに、国人領主たちはその甲斐国内の土地を巡って争いを続けていました。
 この凄惨な状況を打開し、甲斐国内を武力で統一したのが信玄の父であった信虎であり、甲斐武田氏を戦国大名として立ち上げました。その後、信虎は相模国(現:神奈川県ほぼ全域)の小田原北条氏と抗争を続けながらも、信濃諏訪氏と婚姻関係を結び信濃攻略に着手し、佐久郡や小県郡の一部を領土化しました。
 1541年6月、信虎の嫡男であった信玄(晴信・当時21歳)は、支配下にある有力家臣である板垣氏や甘利氏などの助力を得てクーデターを起こし、父を姉の嫁ぎ先・駿河今川氏へ追放し甲斐武田氏の当主となりましたが、父の方針戦略である信濃攻略は変わらず継続したばかりでなく、信玄の代になると信濃への侵攻は激しさを増していきました。
 1542年6月、それまで同盟関係にあった諏訪氏を、その庶流である高遠氏と攻略したのを皮切りに、1545年4月にはその高遠氏も滅ぼし、南信地方を着々と支配下に治めてゆき、次いで1547年には佐久郡・志賀城の笠原氏を攻略、笠原氏の救援に赴いた関東管領・上杉憲政の救援軍も撃破し、志賀城を落とし笠原氏を討滅しています。これにより信玄は中信地方へも勢力を伸ばし始めました。
 勢いに乗る信玄は、1547年2月信濃北東部に強力な勢力を誇る村上氏と雌雄を決するべく上田原で戦いますが、この合戦で信玄は重鎮である板垣信方・甘利虎泰といった有力家臣を失い、信玄自身も負傷するという大敗北を喫します。その信玄の敗北を知った信濃守護である小笠原氏は、同年4月に武田領である諏訪へ侵攻を開始しますが、7月に信玄は小笠原軍の隙を突いて奇襲を掛け、小笠原軍を徹底的に打ち破り、これを契機に再び攻勢に出た信玄は、1550年7月、小笠原の本拠地である松本盆地へ侵攻、本拠である林城(松本市)を攻略。これにより信玄は筑摩郡(松本平)を含める中信を支配下に治め、信濃国内で信玄の支配下に入っていない地域は強豪・村上氏が拠る東信と木曾のみとなりました。因みに同年9月に信玄は村上氏の属城である砥石城(上田市)を攻めていますが、逆に後世「砥石崩れ」と呼ばれるほどの大敗北をしています。信玄は上田原の戦いに続き村上氏に2度敗北していることになります。
 1551年、信玄配下の国人領主・真田幸綱(幸隆)が謀略によって砥石城を奪取、そして1553年4月に遂に信玄は2度も苦杯を味合わせられた村上氏を東信から駆逐に成功。1555年には木曾を治める木曾氏も降伏させて、善光寺平(つまり川中島)を含める北信を除いての信濃は信玄の支配下に置かれた状態になり、父・信虎の代から受け継いでいた信濃経略という武田氏の大方針は信玄によって成就目前に迫っていました。

 

 上記の信玄(武田氏)にとっては宿願の信濃統一に待ったをかけるのが、越後の長尾景虎(上杉謙信)です。信玄に敗北した村上氏、信玄の圧迫に苦しめられている北信に拠る国人領主の島津・高梨など諸氏が景虎に、本領回復の援助および信濃より武田氏勢力の駆逐を要請し、景虎はこれらを受諾。1553年9月、景虎は精強な越後軍団と北信の諸将を自ら率い善光寺平へ進軍し、塩田城(上田市)に本陣を置く信玄率いる武田軍と対峙することになります。これが「布施の戦い」であり、これが龍虎の名勝負・川中島の戦いの第1ラウンドになり、後々第5ラウンドまで続くことになるのです。

武田信玄が善光寺平(川中島)を欲した理由

 今更ですが信玄は何故、強豪・村上氏、その更に上手の謙信を敵に回しつつも信濃一国、特に善光寺平を含める北信を盗ることに真剣になったのでしょうか?それには『経済的』・『外交(地理)上』といった様々な理由がありました。

 

 先述のように信玄が信濃一国を統一するというのは、先代・信虎から受け継がれた武田氏の戦略であり、信玄はこの戦略に沿って信濃へ着々と領土を拡げてゆきました。否、そうせざる負えなかったと言った方が正解でしょう。武田氏の本拠・甲斐(山梨県)は、(これも先述のように)農業後進地帯であり、米の収穫高も22万石という経済が脆弱な「貧国」でした。そのくせ南方に強力な戦国大名・駿河今川氏と小田原北条氏を抱えている外交上の理由もあります。甲斐一国の武田氏は正に「危急存亡の秋」の状態でした。
 この存亡の危機を脱するためには、武田氏は積極的に外征し領土を蓄え、勢力を付けるしか方法はありませんでした。しかし、経済力豊かな南方は今川・北条といった強豪に占められており攻略は困難を極めたので、遺されている進む道は北西の信濃国(長野県)しかありませんでした。後に信玄は信濃制圧を確固にするために今川・北条・武田の三者間で婚姻関係を結んで、後顧の憂いを断っています。即ち有名な「甲相駿三国同盟」であります。
 信濃も甲斐と同じく四方を山々に囲まれた盆地地帯ですが、甲斐より比べて遥かに国土が広く、米の収穫高も40万石となっている上、国内は守護大名・小笠原氏の威勢が衰え、各地に中小規模の国人領主が各地に割拠している状況なので、各個撃破が容易にできる状態でもありました。俄然、信玄が信濃に北進していったのも当然と言えば当然の理であります。

 

 以上のように、信玄を棟梁とする武田氏が信濃へ侵略していった「経済的」「外交上」の理由から紹介させて頂きましたが、信玄が信濃で一番欲した地域は善光寺平を含める北信でした。現在で言えば長野市(長野盆地)一帯であります。
 皆様ご存知のように、長野県(信濃)は南北に長い国土でありますが、その全てが長野・上田・佐久・松本・諏訪・伊那・木曽谷といった盆地地帯となっています。そして県内で一番人口が多く、経済的にも発展しているのが県庁所在地・長野市を有する長野盆地(善光寺平)であります。即ち北信であります。
 この状況は信玄・謙信が生きた戦国期でも変わりありませんでした。信玄は信濃攻略にあたり諏訪・松本などの平(盆地)を徐々に制圧してゆきましたが、これらの平は決して生産力に富んだ地帯ではなく、先述の信濃40万石という収穫高の殆どが、善光寺平の北信に集中していたのであります。その証拠に千曲川・犀川が合流しその支流で潤されている善光寺平(川中島一帯)は肥沃な土地柄であり、鎌倉期からは麦の二毛作が行われてきた信濃一の豊饒な場所でした。一説には謙信が支配していた越後国の収穫高(約39万石)を上回っていたとも言われています。
 善光寺平には文字通りですが、古刹・『善光寺』が7世紀中期頃から鎮座し、門前町として栄えた経済地帯でもあり、上記の河川からは鮭や鱒が獲れる豊富な漁獲地帯でした。また北は北国街道を経て越後(日本海側)、南は松本、東は上田・佐久に通じる交通の要衝でもありました。つまり善光寺平は、信濃国内の農商・仏教(精神)・交通などの富が凝縮されていた地域であったのです。信玄が甲斐より北進して南信・中信・東信を抑え、最終目標として信濃一の発展地・北信も欲したのは当然でしょう。
 信濃の豊地・善光寺平制圧を目指し、周辺の国人領主などを蹴散らし北進し続ける信玄率いる武田軍は一個の「強烈な侵略兵器」と化していますが、これは北方の越後の景虎にとっても脅威であったに違いありません。景虎が信玄に撃破された村上氏などの信濃国人領主の要請を受けた事が発端となり、武田軍と北信で戦うことになりましたが、実のところ景虎にとっては本拠・越後を防衛するために信玄と戦ったいた理由の方が大きいと思われます。もし信玄が北信を制圧したら、今度は信濃の北に位置し、信濃より富栄え海を有する越後に標的を定めることは間違いなく、景虎にとっては信玄の北進は決して他人事ではなかったからです。

 

 『飽くなき北進を続け善光寺平を抑えんとする武田信玄、それに脅威を感じ防衛線を張る景虎』、この両者の川中島での激突は不可避なものとなっていました。

後世の人々が評した川中島の戦い

 戦国期の無敵大名の双璧を成している武田信玄(甲斐の虎)と上杉謙信(景虎)の決戦・川中島の戦いは後世でも講談・小説や映画(テレビ)などでも取り扱われるほど有名であり、井上靖先生の『風林火山』、海音寺潮五郎先生の代表作の1つ『天と地と』などがあります。余談ですが、筆者は海音寺先生の「天と地と」が好きであり、自分が戦国期に興味を持つようになった切っ掛けとなった作品と言っても過言ではありません。因みに同作品は、NHK大河ドラマ第7作目として扱われ(本ドラマで初カラー放送作品)、1990年には角川映画でも公開されています。

 

 上記の事は飽くまでも現代メディアによって取り上げられた川中島の戦いについてでしたが、日本が初の近代化を迎えた明治・大正期にも川中島の戦いは講談で著名であったのは勿論、実は戦略戦術の研究教材・論評として旧日本陸海軍から貴重にされていました。
 海軍部では、日露戦争(1904〜1905)期に、聯合艦隊先任参謀として当時世界最強の大艦隊であるロシア・バルチック艦隊を日本海海戦(1905年5月27日)で撃破した作戦立案し、司馬遼太郎先生の大著『坂の上の雲』の主人公ともなった海軍軍人・『秋山真之(最終階級:海軍中将)』、その真之から直接海軍戦術の教えを受け、海軍随一の良識派としてロンドン軍縮会議締結に奔走、昭和天皇陛下からのご信任が厚く、後に学習院の学長を務め、少年期の今上(平成)天皇陛下のご教育に尽力された『山梨勝之進(最終階級:海軍大将)』。この秋山・山梨両氏も川中島の戦いについて論評および講義を行っています。
 軍事のプロである軍人でもあり、博識であった山梨氏の川中島の戦いについて講義録(「歴史と名将(毎日新聞社)」に収録)も読んでいて面白いのですが、秋山氏の川中島の戦い、ひいては謙信・信玄についての戦略的論評は短文ながらも核心を突いており鬼才・秋山真之の着眼点に目を見張らされます。その論評が『秋山真之戦術論集(中央公論新社) 戸高一成編』に掲載されていますので、以下の通り紹介させて頂きます。

 

 『戦国時代に当り、武田、上杉の両軍が信州川中島にて殆んど戦果なき激戦を交ゆること数回に及び、其戦闘の光彩は両軍戦術の巧妙なると、戦闘の激烈なるとに依り今尚ほ我が戦国史を飾ると雖も、当時対抗両軍は、戦果として何等獲得せしもの無く前後数回の合戦に両軍の勇将猛卒戦没したるもの頗る多く、為に信玄も謙信も其一生の雄図を天下に実行すること能わずして終に織田信長に中原の鹿を獲らしめたる如き、当時両家対陣の事情已むを得ざらしめしものありしと雖も、抑々(そもそも)両軍常に拮抗仲伯せる兵力と兵術を以て戦果を得るの望みなき戦闘を屡々(しばしば)したる因果たらざるはなし。』(第3節 戦闘の勝敗及戦果 文中より)

 

 以上のように稀代の天才戦術家・秋山真之は、川中島の戦いを『上杉武田の両氏にとっては戦果無き、消耗戦』であったと評しています。確かに信玄にとっては信濃の豊地・北信地域を得るために(結果的にそうなりましたが)、謙信は信濃国人衆の要請や自分の本拠である越後の防衛戦のため、という「事情已むを得ざらしめしもの」がありましたが、この川中島での戦いによって両氏が消耗した軍事力や時間というのはあまりにも多大なものであったことは確かであります。
 1561年9月、第4次川中島の戦いで上杉軍1万3千・武田軍2万の大兵力同士が激突し、一日の決戦で上杉軍3400・武田軍4300の兵が犠牲になったと伝わっています。武田軍の犠牲は特に酷く、有能な武将(重臣)クラスでは諸角虎定(豊後)、初鹿野忠次(源五郎)、軍師で有名な山本勘助(晴幸)、そして信玄の実弟である信繁(典厩)が多く戦死しています。
 5度の上杉との戦いで信玄は結果的に北信を支配下に治めることができたのですが、第4次合戦の折りに「天下一の副将」と称せられ、武田氏の名補佐官である文武両道の信繁を失ったことは武田氏にとっては大打撃になったことは確実であり、信繁死後に武田家中は信玄と嫡男・義信との内紛騒動(義信事件)が勃発し、信玄は最終的に義信を廃嫡(相続権はく奪)、義信に同心した重臣・飯富虎昌(赤備えの創始者)などを処断することによって騒動に決着を付けていますが、大事な嫡男(正当な後継ぎ)を失った武田氏は歪み始め、長篠設楽原での敗戦(1575年)など経て、1582年、織田信長によって武田氏は滅ぼされることになります。
 つまり信玄が父の代より戦略方針で掲げていた「信濃経略」が川中島の戦いを呼び寄せ、それによって失った人材・兵力によって最終的に自滅してしまったということになります。結果論になってしまいますが、これでは内政・軍事の天才である信玄であるにも関わらず、彼の「戦略の拙さ」が浮き彫りになってしまったことは否めません。この信玄の戦略失敗については、東京大学史料編纂所教授であられる本郷和人先生が自著『真説戦国武将の素顔(宝島社新書)』でご指摘されています。
 一方上杉氏は、運良く武田氏と同じ滅亡の道は歩まず江戸期も米沢藩として生き残ってゆくことになりますが、真之が評するように川中島での戦いで大きな戦力を消耗し、天下争奪戦で後輩的存在である信長の遅れをとった(中原の鹿を獲られた)結果になっています。

 

 信玄・謙信という戦国史上の強豪同士の名勝負・川中島の戦い、それは後世、戦国絵巻を彩る1つの風景となりましたが、当事者たちからしてみれば、貴重な兵力と時間を奪われてゆく「魔物的存在」であったかもしれません。信長の後釜に座り、天下人になった豊臣秀吉も川中島の戦いを『無駄な戦い』と評し、次いで信玄・謙信の両雄を『もし今でも生きていれば、儂(秀吉)の臣下になっていたであろう』と言い放ったそうです。これは秀吉得意の法螺でもなく、本質をついた言葉であったでしょう。
 先出の秋山真之は戦争の戦果について、『先づ戦ふて幾何の戦果を収めべきかに留意するを最要なりとす』(戦術論集)と断言しています。以上の秀吉・真之の言葉をもし信玄と謙信が聞いたら無言でうなだれてしまったことでしょう。