筆者が敬愛する歴史作家の司馬遼太郎先生の代表作『国盗り物語』は、斎藤道三・織田信長・明智光秀の3人物を主人公とした戦国時代小説ですが、その作品の第4巻(信長後編)で、司馬先生は、信長が、彼と敵対していた強力な宗教勢力・比叡山延暦寺を焼き討ちを敢行するのに対し、信長の家臣で旧体制の教養人でもある光秀が信長の所業を諌止する、という信長vs光秀の鬼気迫る遣り取り(問答)が書かれている場面があります。その中で、光秀が『古き世から伝わるもの大切にせよ』や『仏には罪は無い』などと必死に言上しますが、対して信長は以下のような事を光秀に毅然とした態度で言い放っています。

 

『(仏とは)金属(かね)と木で造ったものぞな』
『古きばけものども(筆者注:比叡山延暦寺)を叩きこわし摺り潰して新しい世を招きよせることこそ、この弾正忠(信長)の大仕事である。そのためには仏も死ね』

 

そして、比叡山を焼き討ちにし、その山に籠る老若男女問わず生ける者3千人以上を殺戮した信長を、司馬先生は以下のように評しています。
『信長は果断過ぎる性格をもって、いま歴史の過去への戦いを挑み、その過去を掃討し去ろうとしたのである』 

 

 信長と言えば、上記の司馬先生が描かれたように一般的に革新的・合理的な思想の持ち主で、日本古来から続く旧体制の1つである「寺社勢力」を強大な武力で以って、徹底的に叩き潰した苛烈なイメージがあります。事実、信長は、彼に敵対した比叡山延暦寺・一向一揆(浄土真宗本願寺)といった宗教勢力を相手に戦っています。特に後者の一向一揆宗徒とその味方勢力の間で、「石山合戦」と呼ばれ、約10年間にも及ぶ長期間闘争を各地で繰り広げており、最終的には一向一揆宗徒とは外交によって屈服させる事によって決着をつけています。
 信長は、何故、延暦寺や本願寺宗徒に戦いを挑んだのか?その理由を参考文献などを用いて、筆者なりに探ってゆきたいと思います。

王城鎮護の山・比叡山が持った強大な権力

 現代人の我々が寺院にお世話になるのは、葬式や法要の時ぐらいのものとなっており、それを取り仕切るお寺様の方も、出来るだけ多くの檀家さんを得ようと営業活動を行っている事も見受けられますが、古代から中世にかけての『寺院』は、我々が考える以上に強大な勢力を持った存在でした。先ず、寺院は、独自に「寺領(寺田)」と呼ばれる寺院を運営維持してゆくための領地や荘園を持つ『大地主』の顔を持っており、信者から先祖供養目的のために寄進された多くの銭(祠堂銭・しどうせん)を集めて、金融業を行ったりしていていました。正に寺社は「不動産業」「金融業」を行う総合商社のような顔も持っていました。その頂点に君臨していたのが、古くから仏教の総本山として天皇家や貴族などの権力者からも尊崇され、強大な財力によって独自の武力も保持していた比叡山延暦寺でした。経済評論家・上念司先生の名著の1つ『経済で読み解く織田信長(KKベストセラーズ)』には、当時の寺社がどのような存在であったかが書かれてある箇所がございますので、以下の通り抜粋させて頂きます。

 

『織田信長が対立した寺社勢力とは単なる宗教団体ではありません。寺社は仏教留学僧が作った支那とのコネクションを生かして貿易業に精を出す巨大商社であり、広大な荘園を所有する不動産オーナーであり、土倉や酒屋といった町の金融業に資金を供給する中央銀行でした。
 中でも比叡山延暦寺(天台宗)のパワーは最強であり、暴力団でいうなら山口組、大学でいうなら東大法学部、不動産会社でいうなら住友不動産・・・・・・、いやこれらをすべて合わせたよりももっと大きな力を持っていました。』(第3章より)

 

 1994年にユネスコ世界文化遺産に登録され、現在では観光客で殷賑を極める比叡山延暦寺ですが、上念先生が記述されたように、当時の延暦寺は仏教のみならず、様々な方面(主に経済面)で強力な勢力を誇っていたのがわかります。
 比叡山延暦寺は、788年に天台宗開祖・最澄(伝教大師)によって創建されて以来、「王城鎮護の霊山」、平安仏教の中心として栄え、後の鎌倉仏教を彩った法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)・道元(曹洞宗)・日蓮(日蓮宗)・栄西(臨済宗)などの各宗派の開祖を輩出したほどの仏教大学としても隆盛を極め、南の仏教都市・奈良(南都)と比肩して「南都北嶺」と称せられる程でしたが、それと同時に一方、延暦寺では、内部対立(山門と寺門の抗争)や寺社同士の対立も激しくなったのが原因となり、独自に武力を持つようになり、寺領防衛目的のためにも「僧兵」を持つようにもなりました。延暦寺の僧兵たちは「山法師」と呼ばれ、時代を経るごとに大規模化し、最盛期には数千人の僧兵が存在するほどの武力を持っていたそうです。平安期に強大な権力を持ち院政を敷いた白河法皇は、自分の意のままにならないものを3つ、つまり「天下の三不如意」として、「賀茂川(鴨川)の流れ、双六の賽の目、山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、延暦寺の武力には日本の最高権力者であるはずの朝廷も手を焼いていたことが覗われます。平氏政権を一代で築き上げた権力者・平清盛も延暦寺と対立した時期があり、清盛は延暦寺を屈服させるために比叡山を包囲したりしましたが、結局は完全に延暦寺を屈服させるまでには至っていません。
 延暦寺は、上記の強力な武力を背景に、武家政権(世俗の権力)の内紛にも介入し、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐に決起した際、天皇側に味方し、皇子・護良親王(大塔宮)の軍勢の一員に加わり、幕府軍と戦ったりしました。また延暦寺が自分たちの意に沿わぬことが起きると、僧兵たちが「(日吉社の)神輿」を奉戴して都に乗り込み、時の権力者に強訴(抗議デモ)することもありました。当時の人々の神仏に対する信仰心・畏敬の念というのは、現代人とは比較にならないほど強かったことは有名な話であり、神が鎮座する乗り物「神輿」に対しても畏敬しており、これを延暦寺の僧兵たちが担ぎ、市中に繰り出せば、街の人々は恐れ慄いたと言われます。それほど延暦寺の「神輿」というのは、人々の(神仏に対する)信仰心を巧みに利用した抗議デモだったのです。因みに、1868年に明治政府に「神仏分離」令が出るまで、神仏は混合されており(神仏習合)、建前上では仏に仕える比叡山の僧兵たちが「神輿」を担ぎ暴れ廻っていたのも、中世期では不自然ではありません。
 室町期になると、6代将軍・足利義教は、自身が延暦寺のトップ・天台座主であった経歴の持ち主であるため、延暦寺の恐ろしさを痛感しており、事あるごとに、延暦寺の力を削ごうと躍起になり対立。義教は延暦寺の寺領を全没収したり、各地の守護大名を使って比叡山を包囲し、経済制裁で延暦寺の締め上げを敢行しました。また弁澄・円明・兼覚という延暦寺の有力僧を謀殺したりしました。この義教の所業に激怒した延暦寺側は、義教と所縁が深い総持寺を焼き討ちにした後、強弁な抗議として20人の僧が延暦寺の根本中堂に放火して自殺しました。織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした事は周知の通りですが、信長より先に、足利義教が延暦寺の焼き討ちを間接的にやっているのであります。
 この延暦寺の焼き討ちにより、一時期「北嶺」と恐れられた比叡山の武力は衰退したようですが、義教死後は再び武力を持ちはじめ、1571年の信長の徹底的な弾圧(比叡山焼き討ち)まで、一種の独立勢力の権力を保っていました。

 

 以上のように、延暦寺が「山法師」という強力な僧兵(武力)を保持できたのは、堅固な「経済基盤」を持っていたからでした。次は、延暦寺が如何にして経済力を身に付けてきたを探ってゆきたいと思います。

国内有数の総合商社であった比叡山延暦寺

 先出の上念先生著の『経済で読み解く織田信長』には、『比叡山のビジネスは大きく分けて、「関所」「金融」「荘園」でした』(第5章)と書かれてありますが、比叡山延暦寺はこの3本柱として栄え、その財力で僧兵などを雇って武力を持ち、幕府や戦国大名といった世俗権力に容喙してきました。
 皆様ご存知のように、比叡山は、現在の地理で言うと滋賀県大津市坂本にあり、古くから北国の物資を畿内に届ける水路「琵琶湖」を抱える上、京都の東側出入口にあたる交通の要衝でした。その地理的好条件を延暦寺は最大限に利用し各地に多くの「関所(坂本七ヶ関、堅田関など)」を設けて、莫大な通行料金を徴収していました。これでは総合商社の域を通り越え、最早「国土交通省」の権限も持っているようなものであります。

 

 「金融事業」に関しては、比叡山延暦寺が創建されて以来、同寺の守護神とされてきた『日吉大社』に仕える神人(しんじん)によって運営されており、この事業でも比叡山は莫大な富を人々から吸収していました。日吉大社が行っていた金融業は、古代、延暦寺の荘園から収穫された米や信者からの寄進米を元手にして、人々に種籾を高利(8%、現在では闇金融業の金利並)で貸し付け、収穫期の秋に利息をつけて返還させるビジネス・『私出挙(しすいこ)』が起源となっています。そして、中世になり、日本国内に貨幣経済が浸透してくると、私出挙は米貸出業から金銭を取り扱う金融業に変換してゆきました。これら金融業を当時は『土倉(どそう/つちくら)』と呼ばれていました。
 上念先生は、以下のように「日吉大社の神人」と「土倉(出挙)」の関連性を記述しています。

 

 『当初は種籾を貸し借りから発達した金融業は銭貨の流入によって、近代的な意味での貨幣を使った金融へとシフトしてゆきます。特に都市部は貨幣の賃借が主流となります。日吉の神人は京都の町に土倉と呼ばれる金融業を開業し、そのシェアは南北朝期においては約8割だったと言われています』(「経済で読み解く織田信長 第3章より」)

 

 また武田知弘先生の名著『「桶狭間」は経済戦争だった(青春出版社)』にも上念先生と同様なことが書かれてあります。

 

 『延暦寺は、この「土倉」も精力的に行った。というより、土倉を広めたのは延暦寺だったといえる。延暦寺日吉グループは「土倉業界」の首領的存在となり、京都の土倉の8割は彼らの関連だったとされている。また京都だけでなく、全国の土倉にも影響を及ぼしていた。』(第2章より)

 

 武田先生は現代から見れば超法外な値であった土倉の金利、次いでその取り立てについても言及しておられます。

 

 『しかも、この土倉は利息が非常に高かった。当時の普通の利息が年利48〜72%だったという。現代の消費者金融をはるかにしのぐ「超高利貸し」である。そして、借り手が債務不履行になったときの「所業」がまたひどかった。現在の闇金さながらの非情な取り立てを行ったのだ。彼らは自分たちが寺社であることを楯にして、「金を返さなければ罰が当たる」といって脅した。また、彼らは武装した集団(筆者注:僧兵や神人)を囲っており、この武装集団が暴力的に取り立てことも多々あった』(同章より)

 

 現在では、必死に仏教や神式のことについてお勉強され、お坊様や神官様になって品行方正に寺社に仕える方々が多いですが、当時の寺社、おまけにその組織の筆頭的存在であるはずの比叡山延暦寺と日吉大社が上記のような極道な金融業を営み、膨大な財力を築いていたのですから、当時の寺社勢力の恐ろしさがわかります。

 

 延暦寺が持つ寺領・荘園もまた広大なものであり、延暦寺のお膝元の近江国(現:滋賀県)をはじめ、越前若狭(現:福井県)にも延暦寺領があったと伝わります。その規模の全貌ははっきりしていませんが、延暦寺が隆盛を誇った鎌倉末期には6万石の寺領を持っていたと言われています。この広大な寺領を防衛するための軍事力を保持するために、多くの僧兵(山法師)が登場し、最盛期には数千人の僧兵が延暦寺にいたとも伝えられています。またそれだけを養える財力が、寺領からの収入をはじめ上記の「関所の通行料」「土倉からの利息」から十二分に賄えるものであったことは間違いありません。

 

 以上のように、『寺領(米)』『関所(通行料)』『土倉(金融業)』を強大な財力を背景に、大規模な軍事力(僧兵)も保持している。これが中世の延暦寺の実態であり、ここまで来ると戦国大名なみの力を持っていることと変わりなく、事実、戦国期にも延暦寺は、戦国大名同士の抗争に対して、己の力をちらつかせて介入をしてきました。この延暦寺の賢しらな所業に怒りを覚える戦国大名がいました。それが1570年代の『織田信長』であります。

信長が延暦寺を焼き討ちにした理由とは?

 1570年4月、当時東海・畿内に勢力を誇っていた織田信長の同盟関係にあった湖北(滋賀県北部)を拠点とした戦国大名・浅井長政(信長の義弟)は、それまでの信長との友好的な関係を破棄し、長政の祖父・亮政(すけまさ)から所縁の深い越前の朝倉義景と連携を強め、信長に対抗するようになりました。同年7月、信長は三河国(現:愛知県東部)の戦国大名・徳川家康と共同で、近江姉川にて浅井・朝倉連合軍を撃破しますが、両氏を完全に討滅するまでの余力は、当時の信長にはありませんでした。
 姉川の合戦の1ヶ月後の8月、早くも浅井・朝倉両氏は信長に反撃を開始。信長が摂津国(現:大阪府北中部)にて本願寺(一向一揆)勢力と戦っている折りに、信長の背後を急襲しました。この時、豊富な財力・武力を持つ比叡山延暦寺は、以前、信長に寺領を横領された経緯もあり、自発的に浅井・朝倉氏に味方、両氏は比叡山に籠城し、摂津から戻った信長軍と9月〜12月までの3ヶ月間も対峙しました。この対陣を「志賀の陣」と呼ばれていますが、信長と延暦寺の対立は頂点に達し、翌年の「比叡山延暦寺焼き討ち」の伏線となりました。
 その翌年の1571年9月30日(旧暦では同月12日)、遂に信長は3万の大軍で比叡山を包囲し、「延暦寺の焼き討ち」を敢行。根本中堂を含める21舎も焼き払われ、僧兵・学僧、比叡山に避難してきた付近の住民、女・童の非戦闘員を含める3千人を容赦なく殺戮しました。これにより、「王城鎮護の山」という宗教的権威を背景に、関所・土倉と様々なビジネスを展開し、強力な武力を誇った延暦寺の勢力は、戦国のカリスマ・織田信長によって徹底的に殲滅されたのですが、攻める信長も非戦闘員である学僧や女・子供まで殺す所業は行き過ぎだと筆者は思うのですが、それを受けた延暦寺側にも「信長に対する侮り」があった事は間違いありません。
 実は信長、比叡山を攻める前に、延暦寺に対して交渉し、「味方になれ」「浅井・朝倉とは縁を切れ」「中立関係になれ」など何度か呼び掛け、これらを延暦寺は拒絶。『これらの条件を受け入れなければ、比叡山を焼き討ちにする』と信長が最後通牒を出しても、これも延暦寺は拒否。その結果が、阿鼻叫喚の焼き討ちと虐殺でした。信長はいきなり延暦寺を攻めたのではなく、古くから続く己の権威に胡坐をかき、信長の決断力と実行力を侮っていた延暦寺にも自業自得な点はやはりあります。因みにこの時には、延暦寺と共に「土倉」の高利貸しで儲けていた日吉大社も信長によって焼き払われています。

 

 信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした理由の1つとして、上記の『延暦寺が故意に、信長に対して敵対関係になった』ということは通説であり、周知の通りなのですが、信長が比叡山を焼き討ちにしたもう1つの理由がありました。それは先より紹介させて頂いた通り、『比叡山延暦寺が老舗の巨大商社として、畿内(中央)の利権を独占していた状態』であり、信長の政策と好対照であったからであります。信長という人物は、「関所撤廃」「楽市楽座」などの経済政策に象徴されるように、人や物資流通の円滑化を図り、経済発展をしてゆくことを大方針としており、関所から通行料を徴収し、高利貸しなどの独占的利権を持ち、挙句はその財力で武力を養い、山上から戦国大名の争いに介入してくる延暦寺は、信長にとっては許し難いライバル商社であったのです。これが、信長の延暦寺焼き討ちの『もう1つの理由』であります。

 

 信長は「無宗教主義者であり、宗教勢力を憎悪していた。だから比叡山を焼き討ちし、一向一揆宗徒を大虐殺した」という評を時折見かけることがありました。確かに信長が当時には珍しく合理主義者であり、宗教など古代権威に対しての畏敬の念というのは薄かった人物でありましたが、宗教信仰そのものを否定していたわけではありません。事実、信長の経済的基盤の「津島」「熱田」を司った「津島神社(津島信仰)」と「熱田神宮(熱田大神)」を保護しており、信長が桶狭間の合戦に臨む際、熱田神宮で戦勝祈願を行っています。また当時新興宗教であったキリシタン(キリスト教)の布教を許可したことも有名な話であり、荒廃していた京都の石清水八幡宮の巨額の復興費を寄進し、一方では伊勢神宮の式年遷宮の復活に尽力しているなど、信長自身も宗教保護活動を積極的に行っております。
 何故信長が「比叡山延暦寺」「一向一揆」の宗教勢力に対して徹底的な弾圧を行ったのか?それは『信長に敵対した勢力』および『利権を独占していた』からであります。司馬遼太郎先生も、出典先文献は失念してしまいましたが、『信長は、宗教勢力が己の権威を利用し、己の利益を図ることを何より憎悪した。決して宗教自体に憎悪していたわけではない』と仰っておられます。そう言った意味でも、比叡山延暦寺という古くから利権を独占し勢力を築き、牙をむいて来た寺院は、信長からは忌み嫌う『魑魅魍魎の類』として見えていたかもしれません。
 次回の記事では、信長が挑んだもう1つの宗教勢力・一向一揆(本願寺)について紹介させて頂きたいと思います。