織田信長とインフラ整備

戦国期随一の英雄/鬼才とされる織田信長が、当時では珍しく父祖から受け継いだ思想『銭の力』の信奉者であったことは、別記事にて度々述べさせて頂いていますが、その銭の力を産み出す「商業」という産業を活性化させるために、駿河今川氏や近江六角氏などの先輩有力大名が既に実施済みであった2つの経済活性化政策である、営業税のみ納税さえすれば、領国内で誰でも商工業を興せることを旨とした有名な「楽市楽座」、当時、全国各地に無数に存在していた通行税徴収機関である関所を廃止し、物流の活性化を図った「関所撤廃」などを大々的に断行していったことは周知の通りでございますが、もう1つ信長が行った経済政策として挙げられるのが、道普請や架橋などを含める『インフラ整備』でありました。
 信長が主に行ったインフラ整備を紹介させて頂きつつ、現在でも息づいているその業績の所産についても(漸くではございますが)紹介させて頂きたいと思います。

 

 現在でも、人や自動車が通行しやすくするために(場合によっては税金の無駄遣いとしか思えないものもありますが)、至る所で道路工事などのインフラ整備を見ることがあります。現在でこそ国民の税金を元手として政府および諸役所、建築業者の方々の日々奮励努力?によって日本は徐々に道路網が整備されつつあると思いますが、その国内における道路改善傾向は戦後になってからであり、1953(昭和28)年、稀代の政治家・田中角栄氏が中心となって発議した全国の道路を改良および舗装するための財源を確保する制度「道路特定財源制度(のちの道路整備緊急措置法)」が政府で施行されたのが契機となり、国内道路の整備改良が徐々に進められるようになります。
 戦後復興が軌道に乗り始めた時期でありながら、以前より日本の道路事情は極めて悪く、道路特定財源制度が施行されて間もない1956(昭和31)年8月8日に日本の道路事情調査のため、、世界銀行から派遣された調査団の団長であった米国の経済学者ラルフ・J・ワトキンスは、報告書「ワトキンス・レポート」の冒頭で、『日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない。』といきなり日本の道路事情の悪さ(国道ではなく「酷道」)を酷評しています。
 1950年代という今から僅か68年前であった現代日本であっても、ワトキンス氏が酷評したように国内の道路事情が悪かったのですから、約450年以上の信長たちが活動していた戦国期日本の道路(街道)事情は更に酷道であったことは間違いありません。寧ろ当時の街道は、各地の統治者(戦国大名など)たち、敵勢力に侵攻の一助を与えないため(領国防衛)を目的とし、インフラ整備を行わかったので、道上は舗装されず凹凸が激しい上に、「細く曲がりくねった悪路」状態であったと言われています。
確かにデコボコして細く曲がりくねった街道では、敵軍の進攻を遅延させる役目も果たしてくれますが、それと同時に自軍が進軍する際も難儀であり、それにも増して日々街道上を通って、物流の役目を果たす商人や馬借といった輸送業者の足止めをしてしまう悪影響もありました。これでは物流が活性化は困難であり、物流が停滞すると経済発展も望めません。
 『これではダメだ!』と強く思い立ち、敵の進攻を恐れず、道普請や架橋というインフラ整備を実行したのが信長であります。

 

 @『弱者は道を壊し、強者は道を造る』 
 A『覇者は道を与える』

 

 上記2つの文いづれも名著『道路の日本史』(中央新書)の著者である武部健一先生が本書内(「戦国時代の道」「覇者の道」)で書かれた名文でありますが、信長以外の当時の強者の双璧である武田信玄や上杉謙信などもインフラ整備を行っているのですが、それは飽くまでも自軍を他国に速やかに行軍させるためを主目的とした「軍事ファースト(軍用道路)」の側面が強い上、広域かつ大々的に街道整備を行わず、一部の区域のみを道普請をしていることに留まっています。信玄・謙信という強者が物流の活性化に主眼を置きインフラ整備を行ったのは疑わしいものであります。
 信玄・謙信も決して、インフラ整備/物流の活性化ひいては自勢力の経済発展を軽視していたわけでないのですが、信長のインフラ整備と経済発展が両人より大々的かつ徹底的なものでありました。信長も勿論、自軍を迅速に動かすことを目的の1つとして街道整備などを行いましたが、信長は街道を整備することによって商人や輸送業者の往来を容易にし、物流の活性化についても徹底していました。この1点が信長が信玄や謙信たち他の強者とは明らかに違っていました。

信長の街道整備と現在まで遺るその所産

 先述のように、それまで曲がり狭隘な街道を改善するべく、信長は自分の領国内でインフラ整備を行います。未だ尾張国(現:愛知県西部)のみを支配していた時期(恐らく1550年代後半〜1560年中盤)の信長は既に、街道整備に着手。尾張国内の要衝であった岩倉や犬山などを結ぶ30kmの街道を新たに敷設した上、その道幅も当時の主要街道である東海道などの平均道幅が僅か2mであったのに対し、信長は平均の2倍である約4mまで拡げる事業も実行しています。2mの道幅であったら、騎馬武者が2列で並んで進軍できる程度の広さであり、商人や輸送業者などが沢山の物資を荷車に積んで移動する場合は、互いにすれ違うのも困難であります。信長はその状況を改善するために道幅を4mへと拡張したのであります。
 岩倉や犬山は当時、信長が征服に執念を燃やしていた美濃国(現:岐阜県南部)との国境に位置しており、信長の本拠である清洲城および那古野城といった南方から速やかに軍勢と軍需品を動かすために、道幅4m、南北30kmの長さの街道を敷設したものと思われますが、信長はその街道脇に「柳の木」を植えるように命じています。現在でいう所の街路樹(並木道)であり、この街道は「柳街道」とも呼ばれることもありますが、信長は街路樹を植え付けることによって、『夏の暑い盛りの折でも、何人(特に商人たち)も木陰の下を歩いて移動できるよう』に配慮したのであります。
 東海道などの主要街道などに街路樹を植栽することは、既に8世紀初頭に朝廷の政策によって実施されていましたが、信長はそれを踏襲した形で尾張で行い、後に信長が長篠設楽原で天下最強の武田軍を撃破し、天下の覇者への躍進した1575年にも、領国内の街道脇に「松と柳を植え」、近隣の住民たちに街道を定期的に掃き清めることを命じています。
 街路樹としては、信長の後輩的立場であった徳川家康が1601年にインフラ整備を行った「東海道の松並木(浜松市や大磯町など)」が有名でありますが、信長は戦国期頃に既に街路樹を植栽することを大々的に行っていたのであります。諸事学び(真似)上手であったとされる家康は、信長や豊臣秀吉が立案実行した政策および都市計画の長所を上手く取り入れ、徳川政権の糧にしてゆきましたが、街路樹を植栽するというインフラ整備の一環も、信長から取り入れたのかもしれません。兎に角にも天下を統一した江戸幕府の手によって、東海道を含める主要街道に街路樹の植栽が行われ、全国にその風景が広がってゆくことになり、これが現在でも、我々が普段よく見る並木道に息づいていることを思えば、信長が命じた街路樹の植栽事業は現在に至るまで大きな業績を残しています

 

 信長はただ街道の道幅を無計画に拡げていったのではなく、3つのランクに分けて道幅を以下の通り拡張してゆきました。

 

@幹線道路となる本街道は約3間2尺幅(約6.5m)』
Aその1ランク下に当たる『脇街道2間2尺幅(約4.5m)』
Bその他の街道にあたる所謂田舎道に当たるであろう『在街道1間(約2m)』

 

 また本街道の両端には3尺(約1m)の土手を築き、土手と道の間には側溝(排水溝)も設けられていました。『「桶狭間」は経済戦争であった』(青春出版社)の著者であられる武田知弘先生は、この信長の道幅拡張計画を、『日本の本格的な道路は、信長から始まったといってもいいだろう。』と断言されておられます。
 更に武田先生は、同著内で信長が1573年に琵琶湖の畔に佐和山城を築城した際に、中山道も従来のルートであった番場〜米原を通らず、鳥居本宿・佐和山城下にルート変更するために、平安初期の名僧・空海こと弘法大師が詠ったとされる一首「道はなほ学ぶることの 難からむ 斧を針とせし人もこそあれ」が名前の由来とされている難所「摺針峠(磨針峠とも)」を開削するという大掛かりかつ難工事を、3万人が動員して断行。結果、中山道は従来より3里(約12km)も短縮された、ことも紹介されています。
 信長は、架橋工事にも積極的でした。1576年には、かつて平安期の最高権力者であった白河法皇も嘆いたほどの京都市街を流れる暴れ川・鴨川(賀茂川)に四条大橋を架設し、1579年には山城国(現:京都府南部)の東側出入口である近江国(現:滋賀県)の瀬田に、約230年前に観応の擾乱で焼け落ちていた、有名な諺である『急がば回れ』の語源となっている『瀬田の唐橋(長橋)』を、若狭国(現:福井県西部)と近江の朽木谷から大量の材木を集め、再架設しています。更に1582年、長年の織田氏の宿敵であった武田氏を滅ぼし、甲信の2ヶ国を支配下に置くと直ちに、天竜川にも橋を架設しています。

 

 上記のように、街道の幅を拡げ、場合によっては領国を敵の侵入から防いでくれる城壁や堀の役目を果たしてくれる峠を開削したり、河川に橋をかけてたりしてまでインフラ整備を断行した信長の目的は、先ず『自軍の速やかな行軍』があり、司馬遼太郎先生は信長率いる織田軍の最大の強みは『抜群の機動力にあった』と評しておられましたが、その強みが発揮できた理由の1つに信長の徹底的なインフラ整備にあったのです。
 先日、歴者学者の磯田道史先生が司会をされている歴史番組『英雄たちの選択』(NHKBSプレミアム)で、琉球王国について取り上げた回が放送されていましたが、その中で琉球王である尚寧王が1597年、領民のことを想い首里城〜浦添城の約4km間を結ぶ街道(中頭方西海道/なかがみほうせいかいどう)を石畳の道として整備したことを紹介しており、数年後の薩摩島津氏の琉球侵攻の際に、それが仇となり容易に島津軍の進軍を首里城まで許す結果となってしまったことも紹介されていました。
 上記の琉球王国ような日本屈指の強豪である島津氏より軍事力が遥かに劣る勢力が街道を整備することによって敵の侵入を容易くしてしまうという結果を招くこともあったのは事実ですが、信長の場合は島津や琉球が比較にならないほどの軍事力を持っていましたので、街道の整備よって敵の侵入など恐れず、寧ろ街道を広く整備することによって、我々織田軍が敵国へ向けて神速に行軍できるという利点、攻めの姿勢のみを活かし切ったのであります。
 信長がインフラ整備を断行したもう1つの目的は、やはり商人や輸送業者の往来を容易にし、『物流の活性化を図った』ことでした。山を切り開き、新たに街道を敷設したり、道幅を拡げ、街路樹を植栽することによって人馬や荷車の通行を負荷少なく容易にし、領内に多くの物資を取り入れ、余剰分は領外に送って売って財を得る。これを繰り返すことによって経済を潤す。結果、信長はより大きな『銭の力』を得ることになる。戦国史の権威でいらっしゃる小田和哲男先生は、著書『さかのぼり日本史7』(NHK出版)内で『信長は経済立国のようなことを考えていたのかもしれません。』とお書きになっておられますが、正鵠を射たものであり、信長は経済立国を目指すことによって、武田や上杉などの諸勢力を圧倒していったのであります。その経済立国を実現するための政策として、信長流のインフラ整備があり、その所産の1つとして先述の現在にも息づく「街路樹」があるのであります。