形骸化した官職より経済的要地を欲した信長

 1568年、天下の富国というべき尾張国(現:愛知県西部)・美濃国(現:岐阜県南部)・北伊勢(現:三重県北部)を制圧した織田信長は、流浪の室町幕府将軍候補・足利義昭を奉じて上洛を果たし、他の戦国大名より一歩抜きん出た存在となりました。
 信長の力によって、義昭は晴れて征夷大将軍に就任し、室町幕府15代将軍になりました。義昭は流浪の身から一気に武家の頂点である将軍になれたことに有頂天になり、信長を「吾が父君」と尊称し、下にも置かぬ態度で接しています。それと同時に、義昭は幕府内の最高栄誉職である「副将軍」や「管領」の就任を信長に勧めますが、信長はこれを固辞。往年の権威を失った室町幕府の要職は形骸化しており、頂戴したところで何の得にもならないばかりか、副将軍や管領になってしまえば、正式に無力将軍・義昭の臣下になったということを天下に周知させることになり、冷徹な現実主義者で自勢力の損得を緻密に計算し、天下への野心を持つ信長にとっては、要職を受諾してしまった場合の不利益をよくわかっていたのであります。
 有名無実の要職を断る代わりとして、現実主義者・信長は義昭に『3つの土地』の支配許可を願い出ています。それが和泉国(現:大阪府南部)にある『堺』・近江国(現:滋賀県)にある『大津』・『草津』の3つの土地であります。
 何故、信長は『堺』『大津』『草津』の3つの土地を欲したのでしょうか?理由は至って簡単であり、3つ全てが『国内トップクラスの物流拠点』であり、その中でも堺にいたっては当時の『国内最大工業都市(兵器廠)』でもあり、信長はそれらを抑えることによって、『天下の工業生産力と物資』を支配下に置き、自勢力基盤を更に強めることにありました。
 尾張国の一地方大名頃より、織田氏の財源の源泉であった「津島」「熱田」という国内を代表する良港を有していた信長は『金銭(商工業)の力』と『物資流通の重要性』を常に認識していた戦国大名であり、上記のように義昭を奉じて上洛を成し遂げた直後には、日本最大の『トレードセンター(堺・大津・草津)』と『軍需産業都市(堺)』の重要性をいち早く着眼し、支配下に置くように手を打っています。
 信長が義昭の力を利用してまで、いち早く欲した『堺』『大津』『草津』の詳細を順繰りに少し紹介させて頂きたいと思います。

「天下の兵器廠」「国内最大の国際貿易都市」であった泉州・堺

 泉州・堺とは、周知の通り、日本の政令指定都市となっている大阪府堺市であり、現在では市内に自転車博物館があるほど「自転車産業都市」で有名となっていますが、これは戦国期の堺が国内一の工業都市かつ兵器廠であり、当時の最新兵器『鉄砲』を数多生産していた名残りとなっています。鉄砲生産に必要なネジ構造が、自転車に使われるネジ構造に酷似しているために、戦国期よりネジを造り慣れている堺が自転車ネジを造れることが今日の由来だとされています。
 最初から余話的なな話題から入ってしまいましたが、戦国期(1543年)にポルトガル人によって日本(種子島)に鉄砲が伝わった以降、堺は国内最大の鉄砲を生産する国内最大の兵器廠となってゆきました。
 堺に鉄砲が伝わった経路として、「紀伊国(現:和歌山県)にある根来寺の僧兵・津田監物(勝算)が種子島に渡り、鉄砲を入手して本州へ持ち帰った後、堺へ渡したという説」、「堺の商人・橘屋又三郎が種子島へ行き、鉄砲の操作方法や製造法を学び、堺へ鉄砲を持ち帰って来た説」の2通りありますが、世の中の動きを見るのに敏な堺商人たちが、鉄砲が持つ威力にいち早く着目し、鉄砲生産に乗り出したことは事実であります。また堺は鉄砲が伝来する以前から、優れた職工人(鋳物師や鍛冶師)が多く集住しており、刀剣や鎧などの武具も多く生産されていた地であり、舶来品である鉄砲を生産する程の技術は、当初から堺にはあったのであります。

 

 堺には鉄砲を生産する天下の兵器廠という工業都市の顔と、日本国内最大の『国際貿易都市』というもう1つの側面を持っていました。地理的に、畿内から瀬戸内海を経て、朝鮮・中国大陸の玄関口にあたる堺は、古来より国際貿易港として瀬戸内・南海航路の発着点の港として栄え、室町期には日明貿易の本拠地として重要性が更に増し、戦国期に至っては、朝鮮・中国(当時は明王朝)に加え、「南蛮諸国(ポルトガル、のちにスペインも参加)」との貿易・物資流通拠点として、文字通り、『国内最大の国際貿易都市/ワールドトレードセンター』として君臨しました。その繁栄ぶりは、西洋の最大貿易都市であったベネチアを彷彿させるとして、堺は『東洋のベネチア』と謳われるほどでした。事実、堺を訪れた宣教師・フランシスコ=ザビエルマラッカの司令官宛ての手紙の中で、『堺は日本の殆どの富が集まっている場所であり、最も栄えた港なので、ここに商館を建てるべきである』と堺の殷賑ぶりを強調しています。
 商売繁栄する所に利あり、利ある所に人が集まる。戦国期の堺には、豪商・職工・芸術家などの様々な人々が集住しており、優れた鉄砲を大量生産可能な高い商工業技術、日本文化と西洋文化の融合によって洗練された芸術サロンでもありました。因みに現在でも日本独自の文化の1つとして重宝されている「茶道(茶の湯)」が、全国的に広がるようになった切っ掛けは、堺の豪商たちの茶の湯娯楽が嚆矢となっています。
 上記のように、古くから交易・商工業の発展により、強大な経済力を身に付けていた堺の人々は、1419年(室町中期頃)から領主である相国寺崇寿院から自治権をもらっており、それ以来、堺は同地に住まう有力な豪商36人の組織委員会というべき『会合衆(えごうしゅう)』の合議制が基本となって統治され、他の大名や宗教勢力からの干渉・支配を受けぬ『自治都市』となっていました。
 戦国期になると、街の周囲には堀・塀をめぐらし、兵力では会合衆が自分達の強大な財力で以って浪人たちを傭兵として雇用して、外敵の備えとしており、堺は強大な経済力を背景に、周囲の勢力を安易に寄せ付けない『独立城塞都市』という側面も持っていたのであります。余談ですが、堺が強大過ぎるほどの『経済力』と『軍事力』を持ち、他勢力からの介入を容易に許さないという点では、当時有数の宗教勢力であった比叡山延暦寺や石山本願寺と似ている点があります。

 

 「天下の兵器廠」「国際貿易都市」として、ザビエルのいうところの『日本国内の殆どの富が集積している地』・堺を、優れた経済センスを持っている織田信長が放置しておくわけがありません。上洛を果たした信長は早速、将軍・足利義昭の権威を利用し、自治都市でもあった堺を自勢力の支配下にするように手を打ち始めます。先ずは、義昭に堺の領有権を承認してもらい、次いで信長は「足利将軍家再興」を大義名分に、堺に対して「織田氏へ服属すること」「矢銭(軍資金)を義昭(事実上、信長自身)に献上するよう」に命令を出しました。『2万貫』という途方もない金額でした。
 今まで独立不羈を守ってきた堺(は、信長の矢銭要求を拒否し、信長と敵対関係にあった三好三人衆(岩成友通・三好長逸・三好政康)と結んで、信長に反抗しました。堺の協力を得た三好三人衆は、1569年1月、信長が本拠地・岐阜へ帰った間隙を突いて、京都へ進軍、足利義昭が居る本圀寺を襲撃しました(本圀寺の変/六条合戦)。しかし、義昭の守護役であった明智光秀・細川藤孝たちの奮戦、急報に接した信長が自ら大軍(5万とも言われています)を率いて、雪の中を強行して義昭の救援に駆けつけて来たために、三好三人衆は敗退してしまい、公然と三好方に味方していた堺も忽ち窮地に陥りました。
 三好を難なく撃破した信長は、改めて矢銭2万貫の支払いを命じるとともに、「堺が養っている傭兵(浪人衆)の追放」、「三好への加担を止めるよう」要請、もし聞き入れない場合は、堺へ攻め込み、街を焼き討ちにすると、いかにも信長らしい恫喝も行いました。実際、堺と同じく古来より商業都市、自治都市として栄えた摂津国尼崎(現:兵庫県尼崎市)は信長からの矢銭要求を拒否したために、1569年(つまり本圀寺の変の同年)、信長によって市街地一帯を焼き払われました。
 三好三人衆の敗退、先例に尼崎焼き討ちがあって、堺は信長からの矢銭2万貫要求と、服属命令を受け入れました。これにより信長は更なる莫大な軍資金と、堺という軍事・経済・物流拠点を無傷で入手することができたのであります。
 信長は堺を手に入れると、同地にある幕府御料所の代官職を以前から務めていた同地の『豪商・今井宗久』を引き続き代官に任命し、加えて京都生まれの『文官・松井友閑』を堺奉行として派遣して、織田氏の堺直接支配(直轄化)体制を構築してゆきました。
 特に今井宗久という当時を代表する茶人であり大物商人は、堺が信長に服属する前から信長を高く評価した人物であり、信長が上洛した直後(1568年10月)に、自ら所有する天下の名物茶器「松島の葉茶壺」を献上したり、信長の矢銭要求があった時には即座に応じ、会合衆を説得する役目を担い、信長のブレーンとして活躍していました。織田氏の堺支配の代官に任命された後も、信長を積極的に補佐、織田軍の鉄砲弾薬など軍事調達などで辣腕を振るっています。政商的存在として経済面から信長を支えた宗久は、信長からの信任が厚く、摂津五カ庄の塩の徴収権・淀川の通行権・但馬国(現:兵庫県北部)にあった生野銀山の支配も許されるほどになりました。

 

 信長は豪商・宗久を使い、兵器廠、貿易都市・堺を織田氏の勢力下に置くことを進め、同地から生産される最新兵器・鉄砲、それに必要不可欠な弾、そして中国から輸入される火薬(硝石)をどの大名よりもより多く、より安価に入手できる信長独占状態になったのであります。これが織田軍の軍備増強に大いに繋がったと同時に、他の戦国大名には鉄砲や弾薬の入手がより困難となったのであります。

「湖上物流」「天下の陸路」のトレードセンターであった大津・草津

上記のように、信長の硬軟織り交ぜた手腕により、国際交易都市・堺を入手したの前後して、「日本国内のトレードセンター」というべき重要物流拠点である『大津』『草津』の2つも手中にしました。大津・草津ともに古くから湖上物流が盛んであった琵琶湖を有する近江国に位置しており、大津は古来より琵琶湖を通じて「畿内・北国間の交易港あるいは京都の外港的存在」として繁栄し、対して草津は、律令時代に始まる幹線道路であった「東海道と東山道(後の中山道相当)が合流し、東国への陸路交通の要衝」であり、江戸期になると草津宿として発展しています。
 信長は西国・南海・海外への玄関口である堺を抑えることによって、海外から輸入される物資(主に火薬)・鉄砲生産力・西国への交易ルートを手中におさめ、近江の大津港、陸路の要衝・草津を抑えることによって、畿内〜北国、東国への物流ルートを把握したことになります。つまり信長は3つの重要拠点を手中にしたことにより、当時の最先進地帯であった畿内から日本の各地方へ放出される『東西南北すべての交易・物流ルート』を自分の支配下に置いたのであります。それにより、莫大な富(金・物資)が信長の手元に転がり込んだのは明白ですが、それ以外に、信長には「もう1つの目論見」があったといわれています。それは、信長のライバル戦国大名たちへ対する「経済封鎖」であります。

3つの地を有した信長の強力な「経済封鎖戦略」

 信長が堺・大津・草津という当時国内有数の港や陸路の要衝を抑えたことにより、信長勢力は有り余る富と鉄砲弾薬を独占できる状態になった反面、地方、特に東国に割拠する戦国大名へ流通する物資(鉄砲弾薬)が制限されるようになりました。信長は合戦を仕掛けるなど軍事的行動を起こさないで、東国大名の弱体化を図っていたのであります。現在でいうところの『経済封鎖戦略』をとっていたのであります。信長の経済封鎖戦略の対象となった東国大名とは誰のことか?それは信長が畏怖した甲信地方を抑え、戦国屈指の最強軍団を率いていた武田信玄であります。
 武田知弘先生が著された名著『「桶狭間」は経済戦争だった(青春出版社)』には以下の如く書かれてあります。

 

 『信長が堺と大津、草津を押さえたことは、実は東国の大名にとって非常に大きな意味を持つのだった。「西日本から東国への交易ルートを信長に完全に押さえられた」ということである。(中略)これが信玄にどういう影響が出るかは火を見るよりも明らかである。鉄砲や、弾薬の材料となる硝石、鉄などの重要な軍需物資は途端に入りにくくなる。山国でもともと物資が入りにくい上に、元栓まで締められてしまったという感じである。』(「第4章 武田信玄が天下を取れなかった本当の理由」文中より)

 

 信長が戦国最強・武田信玄に対して、露骨に敵対行動をとることなく(寧ろ信長は、表面的には信玄に対して可能な限りの交友外交を行っていました)、水面下では信玄の本拠地である東国(甲信)への物流を抑制する戦略(経済封鎖)によって、武田氏の力を弱めていったのであります。地の利・活かせるものは効果的に使って、自身の力を弱めることなく、敵勢力の弱体化を図るという信長の合理的戦略(悪く言えば狡猾さ)が際立っていることを物語っています。
 (暗に)信長から経済制裁を喰らってしまっている信玄を見ていると、世界からも精強と言われていた旧日本陸海空軍の惨状を筆者は思い浮かべてしまいます。太平洋戦争期に、世界随一の国土と経済力を持つ英米国を敵に回し、それらの国々から経済封鎖を喰らってしまい、鉄や油などの軍需品が慢性的に欠乏し、兵器や戦艦は持っているのはいいけれど、それを作動させるに必要な弾薬や重油が無く、ジリ貧で英米に負けてゆく、という旧日本軍と、戦国期に天下の富を手中にしている信長によって、戦国最強ながらも経済的に追い詰められてゆく信玄(武田氏)が同様に見えてきてしまいます。
 信玄在世時の武田氏は、地理と経済的ハンディをはね返して、信長の敵対勢力(浅井氏・朝倉氏・本願寺)と結託して「信長包囲網」を形成し、信長を追い詰めているほどの健闘を見せますが、信玄が病没し、浅井・朝倉などが信長に討滅されると、いよいよ武田氏の経済(物量)的ハンディが明確化になります。それが顕著になったのが、1575年に織田・徳川連合軍との戦い、『長篠設楽原の戦い』であります。
 次回の記事では、その『長篠設楽原の戦い』で信長・家康が如何にして戦国最強と謳われた武田軍を撃破したのかを探ってゆきたいと思います。