浄土真宗の開祖・親鸞と本願寺(一向宗)とは?

 平安末期〜鎌倉前期は日本仏教の一大変革期であり、現在でも連綿と受け継がれている殆どの宗派(日蓮宗や曹洞宗等々)は左記の時代に誕生しております。その中で浄土信仰を旨としている『浄土真宗』、後の戦国期に『本願寺派/一向宗徒』と呼ばれる巨大宗教勢力となる宗派も誕生しています。浄土真宗派が別名『一向宗徒』と呼ばれていた理由は、「『一向』に南無阿弥陀仏と唱え続けたから」だと言われています。
 浄土真宗の開祖は言わずと知れた『親鸞上人』でございますが、親鸞は生涯、彼自身の師匠である浄土宗の開祖・法然(源空)上人を崇拝し、その教えである「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、極楽往生できる(本願を信じ念仏申さば仏になる)」という一点を世の中へ伝えんがために、庶民に対して解り易く教えを説き、肉食・魚食、妻帯を許し(つまり食欲・性欲などの厳しい戒めは浄土真宗にはない)、加持祈?など大仰な宗教儀式を行わないといった合理的な布教活動を行い、庶民の間に浄土信仰を広めた崇高な僧でありました。因みに浄土真宗の念仏である『南無阿弥陀仏』の六字名号とは元来、『ナモ=アミターユス=アミターハ=ブッダ』という梵語(サンスクリット語)から由来しており、一向衆では『帰命尽十方無礙光如来』と何とも非常に長い文言で訳されているそうであります。
 先述のように親鸞は、ただ「師・法然の教え(南無阿弥陀仏)を広める」ことのみに生涯を捧げ、自らの宗派(現在で言う宗教団体)を開くことさえ嫌った人物でもありました。拠って、今更ですが『浄土真宗』という宗派は親鸞死後に創設されたものになります。遥か後年の戦国期に自分が広めた南無阿弥陀仏(阿弥陀信仰)が、一向一揆(本願寺衆)のスローガンに掲げられて多くの信徒が結束し、大勢力となって織田信長はじめ上杉謙信、徳川(松平)家康などといった有力大名と抗争を繰り広げることになろうとは、親鸞にとっては驚愕すべき大事であったに違いありません。

本願寺中興の祖・蓮如と『寺内町』、石山御坊とは?

 浄土真宗の開祖とされる親鸞は、上記のように集団的仏教を嫌ったので、親鸞死後しばらくは浄土真宗は極小な宗派であったと言われており、この時点では後年の一向一揆・本願寺といった勢力誕生に結びつく要素はありません。「浄土真宗をできるだけ大勢の人たち(団体)で信仰しよう」と唱え、本願寺勢力の基礎を創り上げた人物がいます。それが本願寺派中興の祖と言われる浄土真宗本願寺派の8代門主である『蓮如上人』であります。
 蓮如は、それまで京都粟田口にあった天台宗の青蓮院(しょうれんいん)の末寺(小勢力)に過ぎなかった本願寺を、青蓮院本寺に当たる比叡山延暦寺(蓮如曰く、「恐ろしき山」)などの強い妨害などに遭いながらも、京都・摂津・近江・越前といった畿内北陸地方を中心に熱心に布教活動を行ったり、各地の土豪勢力や民衆の間で本願寺信者(一向宗徒)を多く獲得し、また天賦の処世術を持っていたことをうかがわせる蓮如は時の権力者である室町幕府管領・細川政元などに取り入ったり、加賀の守護富樫氏の内紛に介入したりして、爆発的に本願寺勢力を成長させていきました。
 特に蓮如布教拠点で有名なのは、1471年建立の越前(福井県あわら市)の「吉崎御坊」・1483年建立の京都(山科区)の「山科本願寺」、そして1496年建立の摂津(大阪市)の「石山御坊」があります。どの拠点も大規模な御坊(寺院)であったと言われ、むしろ城塞化した堅固な建物群であったとも言われております。またそれぞれの御坊周辺には本願寺信者たちが築いた町・『寺内町(じんないまち)』があり、一大経済拠点として本願寺をバックアップしていた仕組みになっていました。特に越前の吉崎御坊は、蓮如が来る前までの吉崎の地は寒村でありましたが、蓮如が同地に御坊を築いたことにより、日本各地(北は東北から)の本願寺信者(商工業者など)が吉崎の地へ集住し、御坊の周囲に集住し『寺内町』を構築してゆき、御坊建立2年後には200軒近くの民家や多屋が存在してたほどの繁栄ぶりであったと伝えられています。蓮如には、後年本願寺勢力最大の宿敵(仏敵)・織田信長のような優れたデベロッパーの才能もあったようであります。
 寺内町が繁栄することによって蓮如を法主とする本願寺勢力にどのような利益がもたらされるのでしょうか?それは簡単であります。寺内町に住まう信者たちが潤うことによって、信者から得られる喜捨(寄付)が多くなり、自然本願寺勢力も『潤沢な経済力』を持つようになるという理になります。この本願寺の経済事業(寺内町構築)について、名著『経済で読み解く織田信長(KKベストセラーズ)』の著者・上念司先生は、この蓮如(本願寺)の『寺と町をセットにした寺内町』という都市計画こそ、比叡山延暦寺(関所ビジネス)と異なる『本願寺のビジネスモデル』であったと同著で記述されておられます。
 「信仰沙汰も金次第」という言葉を筆者はどこかで聞いた覚えがありますが、蓮如も寺内町構築という都市計画で強固な経済(金)基盤を造り上げ、これを元手に更に信者を集め団体を結成し、先述の管領・細川政元に取り入り、加賀国富樫氏の内紛に介入するなどして本願寺宗派の勢力拡大を行っていたのであります。そして、後者の加賀国では、後に大規模な一向一揆が勃発し、守護・富樫氏を完全に滅ぼし(長享の一揆)、約100年の間、「一揆衆(百姓)で持ちたる国」として存続してゆくことになります。
 蓮如が行っていたことは、明らかに本願寺の宗派・浄土真宗の開祖・親鸞の教えに反する行為でありますが、親鸞当時の情勢よりも緊迫していた蓮如時代には、集団的結束がなければ本願寺存続が困難であったに違いなく、それを存続させばかりでなく大宗教勢力にした蓮如という人物はやはり非凡な才を持った傑物であったことは間違いありません。

 

 蓮如は、当時の情勢不安(比叡山延暦寺や法華宗一揆からの妨害や圧迫など)により布教拠点を近江堅田、越前吉崎、京都山科などを転々とさせられましたが、最終的には本拠地を摂津石山に定めます。本来は蓮如の隠居所として建立された『摂津石山御坊(別名:大坂御坊)』は、先の吉崎御坊の規模を遥かに上回った巨大な寺と町をもった『宗教兼城郭都市』のような存在でした。戦国期には全国で躍動する一向一揆の総本山・石山本願寺として栄え、安土桃山期には、豊臣秀吉の大坂城が石山本願寺跡に築かれ、一時的ながらも天下の首都として君臨することになるのですが、蓮如が石山御坊を建立する前までのこの地は、「大きな石がたくさん土中にあった」のみの台地(上町台地)があったのみだと言われています。よって同地を石山と呼ばれるようになったとも言われています。
 石山御坊は、大坂平野で唯一の高台である南北に長い上町台地に築かれ、御坊の北には旧淀川(大川)・天満川などの大河川が入り組んで流れ、西には大阪湾が控え、東には大和川と古代にあった河内湖であった低湿地帯となっており、南側以外は天然の防壁に護られた仕組みとなっていました。『本願寺史』には御坊の立地について、『景勝のちであると共に要害の地でもあり、また瀬戸内海への水上交通の要衡である』と書き記しています。
 更にその天然の要害の地理条件に加え、各地から石山御坊に集住した本願寺信者(商工業者)たちの手により、御坊の周囲には柵、空堀、土塁、櫓、砦なども築かれるようなり、蓮如の後代に当たる本願寺10代法主証如の時代になると石山御坊は堅固かつ壮大な城郭都市になっていました。
 天然の要害という一辺倒な好条件のみを持っていたばかりでなく、京都に通じる淀川、大阪湾に流れ込んでいる天満川などが交わる河川および海上交通の要衝でもあり、経済的発展も大いに見込める地域でもありました。実際、石山の寺内町は本願寺統制の下、清水町、北町、西町、南町屋、北町屋、新屋敷、檜矢町、青屋町、造作町、横町といった最盛期には10町の寺内町が存在しており、大きな発展を遂げていたと言われています。更に石山御坊の寺内町を中心として大坂平野(摂津・河内・和泉)には「富田林」などをはじめとする寺内町が多く存在し、それらがネットワーク化されており、その『寺内町ネットワーク体制(通称:大坂並)』から産み出される莫大な利益は本願寺勢力の経済基盤を支えていました。
 この天然の要害と経済物流の要衝・石山御坊に拠った本願寺は、戦国期に天下の覇者・織田信長と10年間にも及ぶ大戦火『石山合戦』を交えることになります。

覇者・織田信長が挑んだ難敵・本願寺(一向一揆)勢力との戦い

 戦国期になると、本願寺(一向宗)勢力は摂津石山本願寺を本拠として、河内和泉・紀伊・京都・播磨(兵庫県南部)などの近畿地方は勿論、越前・加賀・越中・越後など北陸地方、伊勢・尾張・三河などの東海地方など広大な範囲まで及んでおり、それに比例して一向信者(「兵力/軍事力」と置き換えてもいいでしょう)の数、本願寺勢力の経済基盤は途方もない強固なものとなっていました。
 北陸では加賀の一向一揆は日本史の教科書に掲載されるほど特に有名ですが、越中や越後の一向宗は当地を本拠としている有力戦国大名・長尾景虎(後の上杉謙信)を相手に戦い、三河の一向宗は最後の天下人となる徳川家康がまだ若年期で松平家康と名乗っていた折りに、三河国内を二分するほどの大規模な内乱・三河一向一揆を起こし、若かりし家康を散々に悩ませました。
 同じ東海では、伊勢長島の一向宗も大きな存在であり、蓮如の六男にあたる蓮淳により同地にある香取庄中郷杉江に願証寺(願證寺)が建立された以来、徐々に土着勢力を取り込み、願証寺を中心に道場や城砦が築かれていました。また伊勢長島は一向宗の総本山・石山本願寺と類似した地形であり、木曾三川が流れるデルタ地帯にできた砂州の島の天然の防壁に護られた要害の地であり、伊勢・尾張間の海上交通の要衝でもありました。同地に拠った伊勢長島一向宗は(先述のように)当然、強い権力を持っており、他の大名や領主の介入を許さない独立勢力となっていました。この存在が不愉快と思っていたのが伊勢長島の隣地にいる尾張の織田信長であります。信長からしてみれば伊勢長島は、本拠地である尾張国の境に位置し、喉元に刃を突き付けられているような存在であったに違いありません。また伊勢長島は信長の宿敵であった美濃斎藤氏の当主であった龍興が信長に追われていたのを保護するなど、織田氏と本願寺が本格的な抗争をする以前から信長に(細やかながら)敵対行動を取っており、後々の信長vs長島一向衆の導火線となっています。

 

 信長が当時より畿内や北陸東海まで大きな影響力と経済力を持つ本願寺勢力と戦うことになるのは、1570年10月から1580年9月の10年(途中一時休戦もあり)という長期間であり、後世では『石山合戦』と呼ばれています。何故信長は、難敵・本願寺勢力と戦ったのか?筆者が理由を愚考するに、主に3つあったと思われます。それをこれから紹介させて頂きたいと思います。

 

@1568年9月、信長は足利義昭を奉じて、当時、京都の支配者であった松永氏と三好氏を降伏および撃破し、念願の上洛を果たし、信長の勢力は東海畿内まで及ぶようになりました。その上洛直後に信長は将軍の権威を利用して、当時の国内一の貿易都市・泉州堺(大阪府堺市)を取り仕切る会合衆(豪商組合)に対して「軍資金(矢銭)2万貫(現在額で約30億円)」を強制的に納めさせ、石山本願寺に対しても「京都御所再建費用」として5千貫の献金を要求しました。この時の要求(ほぼ恐喝)を受け入れ本願寺側は5千貫を信長に納めています。
 信長の本願寺に対しての要求は更にエスカレートし、遂には本願寺の本拠地である「摂津・石山本願寺を明け渡せ」と言ってくるようになりました。北を河川、東は湿地帯、西は海に護られ、上町台地に築かれた要塞でもあり、河川や海に通じる交通の要衝である『石山本願寺の土地価値』を早くも信長は見抜いていたのでした。
 事実、信長は後年、10年にも渡った石山合戦を終結させ石山本願寺の地を手に入れた後、同地(大坂)を本拠とするべく準備をしましたが、その途上で本能寺の変で信長が横死したため計画が頓挫しました。この計画を受け継ぎ実現したのが、信長の重臣であり、信長の経済政策を受け継いだ羽柴(豊臣)秀吉であります。秀吉は石山本願寺跡地に豪華絢爛で天下無敵の要塞・「大坂城」を築城し天下人の本拠と定めると同時に、先述の河川や海の海上交通の便を活かし、『日本国内の物資を大坂に集積し、国内へ再び流通させるという』仕組みを作り上げ、日本経済の中心地として大坂の地は発展してゆくことになります。江戸期に大坂が『天下の台所』と呼ばれ、西日本各地の諸藩もこぞって蔵屋敷を設けたほど、江戸期の日本経済の中枢を担った大坂の発展ぶりは、信長が基礎をつくり、秀吉が規模を大きくしたのが発端となっているのであります。

 

 上記により「信長は何故石山本願寺(一向一揆衆)と戦ったのか?」という理由がわかるのが、『信長は天然の要害かつ経済の要衝・石山本願寺の地が欲しかったから』というのが第1番目の理由であります。

 

A信長という人物は無宗教主義者であり、比叡山延暦寺焼き討ちや一向一揆に対しての苛烈を極める弾圧のイメージがあり、宗教そのものを憎悪していたと見られがちですが、信長自身は宗教(信仰)そのものを否定していた訳ではありません。キリスト教(イエズス会)を保護し布教を許したことは有名ですし、自身の経済的スポンサーであった尾張津島神社や熱田神宮も優遇措置を採っています。
 信長が憎悪したのは、『宗教(人の信仰心)を糧として、人や金を集めて強大な権力を持ち、遂には世俗(武将同士)の闘争に介入してくる』という一点であります。そういう意味では、本願寺勢力の宗旨・浄土真宗の開祖・親鸞の思想と類似しているように見受けられますが、兎に角も上記にある信長の逆鱗に触れる範疇に入っていたのが、古来より仏法を隠れ蓑として暴利を貪っていたとされる「比叡山延暦寺」、そして日本国内の広範囲に信者(兵力)を持ち、その信者たちが住まう「寺内町」を構え、そこから莫大な喜捨・布施(利益)を得て、相乗効果で更に信者を増やしている「石山本願寺勢力」という2勢力であります。
 後者の石山本願寺は、上記のように途方もない人・金を蓄積しており、これについてイエズス会宣教師であるガスパル・ヴィレラという人物は1561年8月の手紙に以下のように書き綴っています。

 

 『日本の富の大部分は、この坊主(筆者注:石山本願寺)の所有である。毎年、はなはだ盛んな祭り(法会)を行い、参集する者ははなはだ多く、寺に入ろうとして門の前で待つ者が、開くと同時にきそって入ろうとするので、常に多くの死者をだす。(略)夜になって坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す。(以下、略)』

 

上記のように『日本の富の大部分』と『甚だ多い信者」を元手として、石山本願寺は朝廷や公家や地方の有力戦国大名と外交を行っています。本願寺11代法主である「顕如(光佐とも)」は、自身は関白内大臣九条稙通の猶子となり、正室は左大臣三条公頼の三女(教光院如春尼)を娶り、朝廷・公家といった中央政権と極めて親密な関係となっていました。甲信の有力大名であり顕如の義兄にあたる武田信玄(正室は三条公頼の次女である三条の方)とも親交を結び、後年には越後の上杉謙信や信長に対して情報戦を行っています。
 『宗教を利用し、人や金を集め、強大な権力を持つ』という信長からしてみれば許すことができない事を全部行っていたのが、本願寺であります。これが信長が本願寺と戦った第2番目の理由でしょう。

 

B上記@にも書きましたが、信長が本願寺勢力に対して「本拠である石山本願寺の地を明け渡せ」という無理難題を要求したことにより、1570年9月、法主・顕如は日本各地の一向宗信徒に対して『仏敵・織田信長を討て』と檄を飛ばし、反織田勢力として旗幟を鮮明にしました。摂津福島・淀川堤では、当時三好軍討伐に赴いていた織田本軍に対して攻撃を開始し、ほぼ同時期に伊勢長島でも数万にもおよぶ大規模な一向一揆が起こり、織田方であった長島城を攻略し、11月には尾張小木江城を攻め落とし、同城主であった信長の弟・信興を討ち取っています。即ち1570年〜1574年の4年間に及ぶ戦乱・『伊勢長島一向一揆』であります。因みに長島一向一揆蜂起時に信長の弟・信興が織田一門で最初の犠牲者となっていますが、4年間で、信長の庶兄にあたる信広や叔父・信次など信長の一門が長島一向一揆で命を落としています。それほど信長を苦しめたほどの一向一揆が伊勢長島でした。
 また摂津石山本願寺や伊勢長島のみでなく、北陸の越前でも一向一揆が織田氏に対して蜂起しており、信長はその都度、大軍を率いて討伐に赴いています。信長は49年の生涯の内、敵対する親類の織田一門、駿河今川氏、美濃斎藤氏、六角氏、浅井氏、越前朝倉氏、三好氏、安芸毛利氏、越後上杉氏、甲斐武田氏など数々の強敵と戦っていますが、その中でも難敵中の難敵であったのは石山本願寺と一向一揆衆であったと言われています。覇者・信長に対して通算10年以上も戦ったのですから。
 先出の『経済で読み解く織田信長』の著者・上念先生は、信長と本願寺勢力との対決について以下のように同著内で書いておられます。

 

 『本願寺は三好三人衆、浅井・朝倉連合軍、武田信玄や上杉謙信とも内通し、信長包囲網の黒幕と疑われても仕方ない動きをしていました。さらに、本願寺は寺内町によって地域経済のハブを抑えており、これをコントロール下に置きたい信長とは必然的に対決せざるを得なかったのです。また本願寺は日蓮宗と宗教戦争を戦った片方の当事者であり、過激派の意見に引きずられて法主がコントロールできないくらいに暴走するリスクもありました。血みどろの宗教戦争が再び起きないように、叩けるときに叩いてコントロールすることが天下統一に向けて避けられない道だったのです。』(第8章 信長の活躍が日本を救った!より)

 

信長が本願寺勢力と戦った第3番目の理由は至って簡単ですが、『本願寺が自発的に信長と敵対関係になったから』であります。また楽市楽座・関所撤廃といった自由経済政策主義を持つ信長にとって、寺内町という本願寺独自が持つ強固な経済基盤、それによって持つ強大な軍事力は決して看過できない存在であり、それを統制下に置かなければ、天下統一は果たせないと信長は考え、本願寺勢力と戦った。と上念先生は仰っておられます。 

 

 上記の@〜Bの事を箇条書きで記述させて頂くと以下の通りであります。
1.信長が石山本願寺の地を欲したから。
2.本願寺勢力が、宗教によって強大な権力を持ち、世俗の権力(朝廷や大名間)に取り入ったから。
3.本願寺勢力が最初に信長に対して戦いを挑んだから。

 

これらが信長が「本願寺/一向衆」と戦った理由となります。

石山合戦終結と本願寺勢力の内部分裂

 信長にとって本願寺と戦いを始めた1570年初頭というのは、信長生涯の中で最も過酷な時期であり、東海(美濃・尾張・伊勢)と畿内の一部(南近江)を拠点とする信長の周囲が全て敵に囲まれる(通称:『信長包囲網』)という危機的状況でありました。信長から見れば西方の敵には、三好氏・六角氏・浅井氏・毛利氏・足利将軍家・比叡山延暦寺、そして石山本願寺、北方には越前朝倉氏、東方には武田氏、南方には伊勢長島一向衆といったように、東西南北が信長と敵対関係でした。
 この(信長から見れば)絶望的な包囲網を画策したのが、信長が奉戴していたはずの室町幕府15代将軍・足利義昭と全一向一揆衆の総大将・本願寺顕如と言われており、この信長包囲網を活かして本願寺(一向一揆)勢力は、強大な信長相手に1570年はじめは善く戦っています。また先述のイエズス会宣教師・ヴィレラの手紙の一部を紹介させて頂いた通り、『坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す』の如く、一向一揆の頭目(僧侶・坊官)が強い影響力を持ち、配下の一揆衆に対して『進めば極楽、退けば地獄』(作家・司馬遼太郎先生は、著作の中で『浄土真宗開祖・親鸞からすればどんでもない文言』と書いておられましたが)、『南無阿弥陀仏を唱え戦って死ねば、極楽浄土へ行ける』など説教をすれば、彼らは喜び勇んで死を恐れず仏敵・信長軍と戦うので、さすがの精鋭からなる信長軍も苦戦させられました。

 

 信長包囲網が崩壊の序曲となったのが、1573年、将軍・足利義昭の懇願により西上作戦を行っていた甲斐の武田信玄の病没でした。信長と対陣している本願寺・義昭・浅井・朝倉諸氏にとって、東方の強力な味方である英雄・信玄の死去は痛恨の一撃でありました。事実、東方の脅威(信玄)から解放された信長は勇躍、将軍・義昭を京都から追放した後、越前に攻め入り朝倉氏を討滅、次いで湖北の浅井氏も滅ぼして、信玄が死去した同年中に信長を拘束していた網を一挙に断ち切りました。これにより石山本願寺にとっては苦しい状況に追い込まれました。
 翌年の1574年には、伊勢長島一向一揆を信長は自ら大軍を率いて討伐に赴き、遂には非戦闘員を含める一向一揆衆2万人を包囲して全て焼き殺すという荒療治を行い、完全に伊勢長島一向宗を滅ぼし、その余勢を駆って、1575年には朝倉氏滅亡後、越前で勢力を誇っていた一向一揆衆も滅ぼしました。
 越前一向一揆については、総本山・石山本願寺から派遣されていた越前一揆衆の頭目格の下間頼照と七里頼周たち坊官たちが、石山本願寺の意向を無視して現地で悪政を敷いたことにより、一揆内部から既に崩壊状態であり、その綻びを突いて信長は攻め込んだので越前一向一揆は容易く滅びました。この時に信長は越前一向宗徒3万人を虐殺したと言われ、このことを信長は家臣であり京都奉行を司っていた村井貞勝に宛てた書状の中で、「越前府中(武生市)は一揆衆の死骸ばかりで、空いた場所がない。そなたにも見せたいくらいだ』と凄まじい自慢をしています。
 兎に角も、この越前一向衆討伐は信長の本願寺勢力に対する締め付けが更に強くなったのみではなく、「地方の一向一揆衆は必ずしも石山本願寺の意思通りに動かない」という本願寺勢力の統制力の脆弱さが世間に露見する形になりました。

 

 総本山である石山本願寺では、1570年の淀川堤の戦いを皮切りに信長軍と干戈を交えていましたが、徐々に戦況は信長の方に傾き、一向一揆衆は天下の要塞・石山本願寺に籠城を余儀なくされました。顕如は中国地方の毛利氏、それまで敵対関係であった越後の上杉氏といった地方の強豪大名と密かに盟約を結び、「第二次信長包囲網」を形成し、信長に対抗してゆく方策を採ります。信長も無理に難攻不落の石山本願寺を攻略することなく、最低限の包囲軍を石山に残留させつつ、各地に点在する敵勢力を各個撃破してゆく戦略を採っていました。
 1576年、本願寺は一時的に、中国地方の雄・毛利氏が従える日本最大の毛利(村上)水軍が、大坂湾近郊を経済封鎖している織田(九鬼)水軍を打ち破ったことにより(第一次木津川の戦い)、勢力を少し回復していますが、1577年には本願寺の盟友である紀伊の国人連合衆(雑賀孫一など)が信長の紀州征伐を受け投降。畿内の本願寺勢力は、摂津の石山本願寺のみになりました。
 更に本願寺勢力には悪い状況が続きます。1578年4月には、第二次信長包囲網の求心力的存在であった越後の上杉謙信が脳溢血で急死し、同年12月には、織田水軍率いる九鬼嘉隆が第一次木津川の戦いの雪辱を晴らすべく、「鉄甲船(鉄を張り巡らせた軍船)」6隻を率い、再度本願寺救援に駆け付けた毛利水軍と決戦。結果、織田水軍の圧勝に終わり(第二次木津川の戦い)、陸海から完全に経済封鎖された石山本願寺は孤立無援の状況が一層強くなりました。因みに同年7月に織田氏の武将であり、本願寺攻略の一翼を担っていた摂津有岡城の荒木村重が突如信長に対して反旗を翻し、本願寺勢力に加担。信長からしてみれば石山本願寺の包囲軍崩壊の危機的状況になりましたが、信長が素早く対処(有岡城包囲)したので、石山本願寺包囲軍には大きな影響がありませんでした。

 

 1580年3月、朝廷は信長と本願寺勢力に対して和睦を打診。双方ともこれを受諾し、これで1570年から10年も続いた「石山合戦」は終結しました。しかし、ここで本願寺勢力側で『内部分裂』が起きました。和睦の条件として、法主・顕如をはじめとする一向宗が石山本願寺の地を信長に明け渡すという一項がありました。顕如はこの条件に大人しく従い、和睦成立の1ヶ月後の4月に石山本願寺を退去、紀伊の鷺森御坊(本願寺鷺森別院)に移転しましたが、顕如の長男であり本願寺第12代法主の「教如」が退去を断固拒絶する硬化的な態度と採り、これに同調する一部の信者を従えて信長に対抗する形となりました。(結果的に教如は不利をさとって8月に石山を退去しています)
 上記の教如の強硬な態度に業を煮やした父・顕如は、教如を義絶(廃嫡)、三男・准如を後継者と定めるようになりました。後に顕如と教如は朝廷の仲介により和解しますが、結局は先の分裂が後世の現在に至るまで緒をひき、「東本願寺(教如)」「西本願寺(准如)」という浄土真宗本願寺派の分裂という結果になっています。

 

 天下の覇者・織田信長に対して10年以上も果敢に戦いを挑んだ本願寺(一向一揆)勢力。この大事に対して返って来た代償は後々まで日本宗教界に大きな影響を与えるという途方もないものでした。

信長が苦戦しながらも宗教勢力と戦った理由

織田信長は天下統一(天下布武)という大目的に邁進するべく、数多くの有力戦国大名のみではなく、「本願寺(一向一揆)」・「比叡山延暦寺」といった当時の2大宗教勢力と死闘を繰り広げ、最終的にそれらを武力で屈服させた形になりました。
 信長が彼らを屈服させたことにより、後世の日本にどのような影響を与えたのでしょうか?それは主に『2つ』ありまして、@『日本から宗教戦争が無くなった』ことと、A『日本国内の物流活性化に貢献した』ということが挙げられると思います。

 

@の宗教戦争の根絶についてですが、古今東西問わず世界各国では、其々の宗旨の違いから宗教戦争が勃発し、更なる戦争がうまれてしまうという悲劇の連鎖が起きています。日本でも信長誕生以前は、畿内(京都・奈良など)を中心に日蓮宗と一向宗、天台宗と一向宗の対立といった具合に宗教戦争や宗教一揆が発生し政情に更なる不安定さを与えていましたが、その状況下に信長が忽然と登場し、古来より強大な経済力と武力を持っていた「比叡山延暦寺」次いで、「本願寺勢力」を苦闘しながらも徹底的に叩き潰したので、宗教勢力の武力や権力は弱まり、最終的には宗教勢力は布教活動のみに限定されるに至ります。
 先述のように、現在でも海外(特に中東諸国)では宗教戦争やそれに付随しての内紛やテロ行為が頻繁に発生してしまっている一方、日本では左記のような宗教関連のもめ事については無縁となっています(本当に有り難いことであります)。これは全て戦国期に、信長が果敢に強大な宗教勢力と戦い、それらを屈服させた結果であります。これについては、あるテレビ番組でご出演されていた歴史学者・磯田道史先生も『織田信長の大きな功績』として称賛されていました。

 

Aの物流活性化についてですが、信長在世の1570年代には、先述のように「比叡山延暦寺」と「本願寺勢力」の2大宗教勢力が跋扈していました。延暦寺は、全国金融業の元締、独自に街道に関所を設け庶民から高額な通行料を徴収し、それを元手に強力な軍事力と権力を所有していました。そして本願寺勢力は寺内町を独自に構え、そこから得られる喜捨(寄進)によって潤沢な経済力を保持していました。この2大宗教勢力のみならず、京都大山崎に鎮座する離宮八幡宮といった他の寺社勢力も特定の産業(例:油や塩など生活必需品)には『座(組合)』を設け、その支配者となり、商人からは膨大の営業税(運上金)や場所代を吸い上げ、増々寺社勢力は強大になってゆきました。
 上記の状況では、当時の政治経済の中心地である畿内に存在する延暦寺と本願寺、ひいては他の寺社勢力のみが「経済のインフラ」を独占していることになり、宗教勢力のみ肥え太ってゆくばかりで、物流の停滞しか生みません。この利益独占の状況に激怒していたのが信長であり、宗教を隠れ蓑として財力・武力を蓄えている宗教勢力に対して大鉄槌を下しました。それが比叡山延暦寺焼き討ち、石山合戦という結果で表れています。
 信長は、現在で言う自由経済主義のような思想の持ち主であり、営業税のみ支払えば誰でも自由に商売ができるシステム・楽市楽座を設け、関所を廃止、道路も整備し、『物流の活性化』を図りました。平たく言ってしまえば、信長は利益・経済基盤を独り占めしていた宗教勢力を経済界から排除し、働けば誰でも儲けられる産業システムをつくり、物流、そして経済の活性化に貢献したのでした。この信長が遺した業績を豊臣秀吉の更なるインフラ整備で拡大させ、最後には近世の江戸幕府に受け継がれゆくことになりました。
 上念先生は、『(信長が)比叡山を焼き討ちにし、石山本願寺包囲戦を戦ったことは、結果的に物流の主導権を寺社勢力から武家勢力に取り戻すこに繋がりました。』と信長が宗教勢力と戦って勝った結果を仰っておられます。
現代日本にも続く「国内の宗教紛争の皆無さ」「日本経済の活発さ」、これらの恩恵は織田信長が苦労して遺してくれた遺産たちというべきものなのです。